なのだと考える。供養を行わないと、先祖は疫神としての[[祝融型神]]へと変わって災疫神になってしまうのだ。
また、先祖を植物化する傾向が強くなると、一般的な豊穣を求める祭祀が、「'''先祖(植物)を生き返らせる祭祀'''」ともなり得ないだろうか。植物とは、先祖かもしれないが、人の生活の役に立つものでもある。穀物や野菜は食料になるし、木や竹は加工すれば建材や道具、楽器にもなる。そして消耗品でもあるので、植物は収穫しては消費し、殺して加工し、ゴミになったら捨てて、また新たな植物の育成と収穫を求める、とその繰り返しである。だから'''殺しても、常に生き返って再生してもらう必要があるのも植物'''なのだ。先祖のもたらす加護に植物の死と再生の円滑さを求め、かつ先祖を植物に見立てると、「'''先祖が死と再生を繰り返さなければならない'''」ということになる。これを求める祭祀にも水牛を捧げるのだろうか? それとも人をっささげるのか?
それはともかく、メソポタミアから西では、先祖を拡張した神々にまで、このように「'''神々(植物・先祖)が死と再生を繰り返さなければならない'''」という思想が発展したように思う。でも、この祭祀になにがしかの生け贄を捧げたとしても、動物や人間がそのままの姿で生き返ってくるわけではない。科学的には植物だって、種から生えたものは、その親の植物とは異なる個体なのだが、昔の人にはそのことは分からなかったのだろう。だから、生け贄にしたものが生き返ってこない以上、再生したものは何なのか? と思う。チャンヤンが水牛を生け贄にして生えてきたのが、'''先祖の竹'''であるなら、生き返ってきたのは'''先祖'''ということになりはしないだろうか。生えてきたものが'''鬼のプーセという稲'''であったら、生き返ってきたのは'''鬼のプーセ'''なのではないのか。生えてきたものが'''ハーデースという小麦'''であれば、生き返ってきたのは'''ハーデース'''といえるのではないだろうか。そして、生えて来たのが'''蛾王という楓香樹'''であれば、生き返ってきたのは'''蛾王'''なのではないのか。こうして、いつの間にか、'''人身御供というものは、先祖を自分たちの都合の良いように再生させるための祭祀の道具'''、となっていないだろうか、先祖を植物になぞらえてしまったが故に、と思うのである。
そして、本当に蛾王は楓香樹で良いのか、蚩尤は楓の木で良いのか? となる。誰か他のものを'''無理矢理害虫と一体化する'''ことで、祟り神のような悪者に変換してはいないだろうか、と思うのだ。そもそも建木を立て管理するのは[[黄帝]]の役目ではなかったのか。何故、我らは人身御供を禁じた川の神である[[黄帝]]の変化した[[河伯]]に人身御供を捧げなければならないのだろう? それは'''川の神と人身御供を求める疫神を習合させた'''ものがいて、'''災害を起こす川の神に人身御供を捧げなければいけない'''、と無理矢理決めてしまったからではないのだろうか。チャンヤンの神話は、時代が下ると洋の東西に広がって、理論的に整合性のない奇怪な神話を各地に生み出していくように感じるのだ。
== 私的注釈 ==