=== 昔は良い人だったのに? ===
管理人が書いた「'''その後の物語'''」については全く根拠がないわけではない。中国神話の方から述べれば'''祝融が共工を倒した神'''であれば、その際に部下の'''相柳も倒した'''と考えらえる。その'''相柳を倒したのが禹'''なのであれば、'''禹とは祝融のことである'''、と自然に帰結する。一方、「良い」とか「悪い」というのはそれを見る人の立場や視点によっても変わってくるものなので、水雷神で龍蛇形の黄帝のことをさまざまな思惑から「良い神」とみなす人もいれば、その逆に「悪い神」とみなす人々も当然いたであろうと思う。管理人は、伏羲・女媧の伝承は、管理人が付け加えた物語と一体となった「'''夏の創設神話'''」の一部だったのではないか、と考える。本来の禹とは、'''父親の仇を取った英雄王'''、と言われていたのではないだろうか。その方が一王朝を創設した英雄に相応しい神話といえる。伏羲と女媧、すなわち禹と塗山氏女は「人類の創造者」ではなく「'''夏の創設者'''」とされたのだろう。でも黄帝の権力が拡大するにつれて、王権の強化のために、他にあった人類の創設神話と組み合わせる形で、「人類の創造者」にまでその姿が拡大してしまったのではないだろうか。そして、伏羲・女媧神話が元々苗族の伝承だったものならば、苗族の一部が中原にまで勢力を拡大し、夏王朝を創設したので、彼らの「'''部族創設神話'''」が、「'''夏の創設神話'''」にまで発展してしまったものだと考える。夏とは苗族の王朝だったのだろう。
「'''昔は良い人だったのに、悪人になって倒されてしまった。'''」というパターンの伝承は夏の神話の中にも存在する。夏の'''后羿'''である。
<blockquote>太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。羿は、仲間と共に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南)を都とした。しかしその後の羿は、伯封を殺してその母である玄妻を娶り、寒浞という奸臣を重用し、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BF 羿]より) </blockquote>
また、一般的な羿神話もこのパターンである。
<blockquote>羿は、人々のために帝夋の意に逆らい、帝夋の子供達である太陽を九個まで射殺した。帝夋は羿を「'''悪人'''」とし、羿と妻の嫦娥を神籍から外して、彼らは不老不死でなくなった。羿は西王母を訪ね、不老不死の薬をもらって帰ったが、嫦娥は薬を独り占めにして飲み、月へ逃げてしまった。羿は、弟子である逢蒙(ほうもう)に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿)と言うようになった。(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BF 羿]より) </blockquote>
=== 私的解説 ===