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713 バイト追加 、 2025年2月16日 (日)
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そもそもキリスト教が発生した古代ユダヤ社会にも、一神教の神を[[サートゥルヌス]]のような破壊性の高い神と考えて、その暴力的な能力でローマからの支配を逃れようと考える人々がいたのではないか。イエスの弟子達の中にも「熱心党」と言われる過激な人々がいた。パウロもキリスト教に改宗するまでは、暴力的な弾圧を厭わない人物だった。彼らには共通して「暴力で世界を変えよう」という思いがあり、彼らの「神」はそのような神で、宗教的な思想と政治的な思想が、表裏一体のものとして存在していたのだろう。イエスが「弟子に裏切られた」とは良く聞く話だが、そのように敵対者とみなした者を犯罪者に仕立てあげたり、親しくするふりをして死に追いやることも「破壊神の性質」として肯定されていたのではないだろうか。
だから、この暴力的な思想を持った人々が、自らを「熱心党」と呼ぼうが「キリスト教徒」と呼ぼうが「パリサイ人」と呼ぼうが、ともかく「ユダヤの神はローマの[[サートゥルヌス]]と同様のもの」と考えていさえすれば、その名称や呼称はどうでも良かった、ともいえる。そう考える人達がある程度いたために、結局ユダヤ・ローマ戦争が起き、エルサレム陥落とユダヤ人のエルサレム追放が起きてしまうのである。
だから、この暴力的な思想を持った人々が、自らを「熱心党」一方、キリスト教の方は、イエスの死後ユダヤ世界を放れ、各地に布教を繰り返すようになる。ローマでは初期には下級階層に広まるが、結局貴族階級にも浸透していく。
== 参考文献 ==

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