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964 バイト追加 、 2025年2月14日 (金)
ともかく、大国主命の「死と復活」は、「大国主命の死」と「大国主命・[[須佐之男命]]が一体化した復活」と組み合わされており、復活した大国主命であるところの大物主命は[[須佐之男命]]も同然の「祟り神」とされている。これが中世になって民間伝承化すると「'''良い人が非業の死を遂げて祟り神になる'''」という話に縮められてしまい、老若男女を問わず「誰でも死んだら祟り神」化する傾向になってくる。元の話が「イエス・キリストの復活と再生」だったとしても、伝承は何だか一見して聖書の内容とは似ていない感じになってくる。
なぜ、大国主命がイエスを投影したものだとして、死んで再生したら[[須佐之男命]]になってしまうのかというと、その原因はローマ神話にあるように思う。ローマの重要な「父なる神」とは[[サートゥルヌス]]のことであって、この神は農耕神でもあり時間の神ともされているが、植物が育って枯死し実(赤ん坊)をつけて、それがまた発芽し成長する、というサイクルを繰り返すのになぞらえて、1年のうちに「発生(出生)、成長、老化、若返り(種)」を繰り返す神と考えられていたのではないかと思う。植物の「種」は正確には動物でいえば「子供」のことであって、この神は農耕神でもあり時間の神ともされているが、植物が育って枯死し実(赤ん坊)をつけて、それがまた発芽し成長する、というサイクルを繰り返すのになぞらえて、1年のうちに「発生(出生)、成長、老化、若返り(種)」を繰り返す神と考えられていたのではないかと思う。植物の「種」は正確には動物でいえば親の植物の「子供」に相当し、親の植物がそのまま若返るのではないのだが、古代の人にはそれが分からず、同じ植物が「死と再生」を繰り返しているように思えたのだろう。[[サートゥルヌス]]が農耕神であり、植物神でもあるなら彼もまた植物のように「死と再生」を繰り返す神と考えられたのだろう。そしてそのために生贄が必要と考えられたのではないだろうか。そして[[サートゥルヌス]]が「万物の父」であるならば、年末に動物とはいえ、生贄を捧げられて「老い」から若返る[[サートゥルヌス]]は、動物という「我が子」を食らって若返る神でもあったといえる。その性質は天界では嫌われて[[サートゥルヌス]]は地上に追放されたが、地上ではその性質なくして農耕の豊穣は得られない、と考えられたのだろう。
== 参考文献 ==

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