* 奥ノ院・五角形の磐座: 社殿裏手へ約100メートル、標高116メートルで、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部の頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれ、その上の青石の祠の中に砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が祀られている。 一説には'''卑弥呼の墓'''であるという。
* 摂社・大泉神社: 境内より北西約500メートルの山中に「天の真名井」と呼ばれる五角形の井戸があり、傍らの石積みの祠に祀られている。天文年間までは十二段の神饌田の泉であった。
== 私的考察 ==
「天石門別八倉比賣大神御本記」は偽書であるという説が有力だ、とのことだが、「偽書」の意味が不明と感じる。「歴史的事実を記していない」という点を「偽書」と呼ぶのであれば、古事記の神代の記述も偽書である。「伝承を記載したもの」を総じて「偽書」と定義するのであれば、グリム童話集も「偽書」と言わざるを得ないだろう。
当社ともう一つの「一宮」の論社である上一宮大粟神社の伝承と併せて、
「太陽女神が亡くなって、月の女神あるいは水神女神に変じた。」
という伝承が根底にあったものと推察される。水神女神とは、丹生都比売あるいは広瀬大社の若宇加能売命といえる。でも、もっと普通に
「ハイヌウェレ(太陽女神)が亡くなって、月の女神あるいは芋の女神に変じた。」
と短く分かりやすい話にしてくれれば良かったのに、と個人的には思ってしまう。四国は日本の中では南の方に位置するので、古くから芋に関してハイヌウェレ的な神話が強くあったのではないか、とも思うし、そのような神話の上にこの伝承は立脚していると思う。
天照大神と天石門別が矢を放って聖地を定める点は、[[天道日女命]]が息子の天香山命に矢を射させた、という丹後半島の伝承と共通する。また、天石門別は天照大神を助け付き従っているのだから、天照大神と天石門別の関係は、丹生都比売と高野御子神の関係に似ている。日本では、「太陽女神とそれを(洞窟から)助け出した若者」は「母息子」として語られることが多いようである。
ただし、苗族の民話に「囚われの女性を若者が助けて結婚する」という話があり、グローバル的にはこれは「ラプンツェル」の類話なので、物部氏系の氏族がこの2神の関係を「母子」としている方が全体から見ればやや特殊なのである。そして、古事記に至ると、天照大御神と手力男命は「母子」の関係ですらなくなってしまう。
ともかく、古代の徳島は、神々の名前を別に書き換えて、それまでの神話を整理して統合したり、分離したり、拡張したり、という作業も行っていたところ、と述べるしかない。当地でまず
「太陽女神が死んで月の女神(でなければ豊受のような豊穣の女神)や水神女神に変化した。」
という総合的な神話を作った上で、これを2つに分離して、一つは「八倉比売は天照大御神」という伝承にし、もう一つは「八倉比売は大宜都比売」という伝承にしたものと思われる。併せれば
「天照大御神は大宜都比売である」
となって、八倉比売はいらなくなるのだが、彼女がいないと作り替えもできなかったので、便宜的に作り出した女神だったのだといえるのではないだろうか。こうして作り替えられた天照大御神と大宜都比売(言い換えれば豊受大神)は、中央にフィードバックされて各地に拡がり、伊勢の内宮と外宮に新たに再編されて祀られることになるのだが、それに関わっているのも阿波忌部氏ではないだろうか。
ということで、八倉比売と天石門別命の伝承は、夫婦神であった彼らを、母子神へ、そして全くの赤の他人へと書き換えるための伝承だったと考える。
それでも管理人は、天照大御神と手力男命、言い換えればラプンツェルと彼女の王子様が「夫婦であった」という伝承の片鱗を日本の国内に見いだすことができて嬉しく思う。
また、管理人はこの八倉比売というのは、「八坂刀売」という名の女神にも変化しているのではないかと考える。阿波忌部氏とは「神話を作り出す役目」も負っていたかもしれないと考える。
== 参考文献 ==