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20 バイト除去 、 2025年1月1日 (水)
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翌未明(午前2時頃)、竹井・仁江・船阪・宍人・大西・半田の宮衆を始めとする氏子が御旅所へ参集し、「練(ね)り」や角力の奉納が行われる。この時には宍人と大西から選ばれた沙汰人(さたにん)と呼ばれる者が宮司の指示を受けて神事を執り行う<ref>宍人の沙汰人は隔年、大西は毎年交替。</ref>。初めに沙汰人が「お神酒を奉れ」と命じて神事が始まり、船阪から選ばれた典供者が[[榊]]を口に咥えて神前に神酒の満たされた瓶子2本を持参する。続いてそれを銚子に注いで神前に侍る宮司へ渡す。それを受けた宮司は別の瓶子に注ぎ直して献じ、銚子は典供者へ返す。次に沙汰人が「お神酒を下げよ」と命じると宮司は瓶子から盃へ神酒を注いでそれを神前に残し、残りの神酒を瓶子ごと典供者へ戻す。引き続き沙汰人は宮司へ「お神酒に参られ」と伝えて共に「船阪庁」という御旅所内の参集殿へ下がり、神酒と柿を切って作った肴で直会を行う。その後宮司と沙汰人が再び神前へ戻り、沙汰人が「お典供に立て」と命じると、典供者が大笥の神饌を2膳、小笥の神饌を11膳供え(大笥は当神社祭神用、小笥は摂社祭神用(摂社の祭神は各集落の氏神11社の祭神でもある)という)、練りへと移る。若宮神社の神輿が同宿していた当時は、典供者は二手に分かれて両神輿それぞれへ供える神饌を運び、若宮神社方は巫女がこれを受けて神輿へ献饌したという。なお、現在は略されているが以前は練りの前に沙汰人の「ではおろし」という合図で撤饌が行われていた。
練りはその様子から「泥鰌取り」とも呼ばれるが、沙汰人と竹井・半田の角力取りによって演じられる。演者は1人宛刀を手に採り腰に魚籠を吊して御旅所に設えられた[[土俵]]を1回りし、その間刀で地を突いて「おったー」等と言いながら[[泥鰌]]を掴んで魚籠に入れる仕草をする。その後宮主の呼び出しで角力が行われるが、先に実際の取り組みが、次いで「半角力」と呼ばれるものが行われる。取り組みは「出角力」と「待角力」に分かれ、待角力方の角力取りが先に土俵へ上がって後に上がる出角力方からの技を一方的に受け、出角力方が勝ち役を、待角力方が負け役を演じる形で7番が行われる(但し、勝敗はつかない事となっている)。半角力は1人で角力を取る所作をするもの(一人角力)で、最後は投げ飛ばされたように転がる。これは稲霊である目に見えない摩氣の神を対手とする事を表し、その神に投げ飛ばされる事で神慮を慰め、五穀の豊饒を祈るものという。半角力が済むと、竹井と今度は船阪による練りがあり、神事を終える。練りはその様子から「泥鰌取り」とも呼ばれるが、沙汰人と竹井・半田の角力取りによって演じられる。演者は1人宛刀を手に採り腰に魚籠を吊して御旅所に設えられた土俵を1回りし、その間'''刀で地を突いて'''「おったー」等と言いながら泥鰌を掴んで魚籠に入れる仕草をする。その後宮主の呼び出しで角力が行われるが、先に実際の取り組みが、次いで「半角力」と呼ばれるものが行われる。取り組みは「出角力」と「待角力」に分かれ、待角力方の角力取りが先に土俵へ上がって後に上がる出角力方からの技を一方的に受け、出角力方が勝ち役を、待角力方が負け役を演じる形で7番が行われる(但し、勝敗はつかない事となっている)。半角力は1人で角力を取る所作をするもの(一人角力)で、最後は投げ飛ばされたように転がる。これは稲霊である目に見えない摩氣の神を対手とする事を表し、その神に投げ飛ばされる事で神慮を慰め、五穀の豊饒を祈るものという。半角力が済むと、竹井と今度は船阪による練りがあり、神事を終える。
角力は11社の氏子が参加する習いで、現在不参の4集落は竹井の者がその代役を務める形で古格を保っている。また練りに関しては、滑稽味を帯びたその様態から神との角力に伴うかつての負態(まけわざ)の名残とも思われるが、[[兵庫県]]の石上(いしがみ)神社に伝わる「なまずおさえ神事」とともに検討すべき伝承とされている角力は11社の氏子が参加する習いで、現在不参の4集落は竹井の者がその代役を務める形で古格を保っている。また練りに関しては、滑稽味を帯びたその様態から神との角力に伴うかつての負態(まけわざ)の名残とも思われるが、兵庫県の石上(いしがみ)神社に伝わる「'''なまずおさえ神事'''」とともに検討すべき伝承とされている<ref name="神々" />。
神幸祭2日目の午後2時頃、氏子が俵や[[弓矢]]・的・[[床几]]・折櫃等を持参して参集する。先ず船阪の者が俵と折櫃を神輿に献じ、祝詞奏上の後に沙汰人を先頭に、仁江・船阪の一行が[[幣束]]・弓・的・俵・折櫃等を捧げ、宍人と大西の当番が[[鋤]]・[[馬鍬]]を持ち、2頭の[[張子]]の[[神幸祭2日目の午後2時頃、氏子が俵や弓矢・的・床几・折櫃等を持参して参集する。先ず船阪の者が俵と折櫃を神輿に献じ、祝詞奏上の後に沙汰人を先頭に、仁江・船阪の一行が幣束・弓・的・俵・折櫃等を捧げ、宍人と大西の当番が鋤・馬鍬を持ち、2頭の張子の''']]がその後に続いて1列になって船阪庁の周りを3周するお千度が行われる。お千度が終わると仁江と船阪の稚児が神輿の前で幣束を振り(奉幣)、次いで[[木馬]]に騎乗、的持ちが掲げる的を矢で射る流鏑馬(やぶさめ)が行われる'''がその後に続いて1列になって'''船阪庁の周りを3周する'''お千度が行われる。お千度が終わると仁江と船阪の稚児が神輿の前で幣束を振り(奉幣)、次いで木馬に騎乗、的持ちが掲げる的を矢で射る流鏑馬(やぶさめ)が行われる<ref>流鏑馬は以前は早朝に行われていた(『式内社調査報告』)。</ref>。流鏑馬が終わると神輿の還幸となる。
還幸は御旅所を後にした神輿を、竹井・仁江以外の者が篠山街道まで見送り、仁江の一行は仁江の公民館付近まで同行する。夕刻に神輿が摩氣神社に帰着すると、最後はこれを担いで激しく上下に揺すりながら拝殿の周りを1周し、神幸祭を終える。

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