* '''貫前女神と意岐萩神'''
佐久に伝わる伝承である。
: 貫前女神を母として生まれた[[意岐萩神|興波岐命]]は、建御名方神の八男とされる。[[意岐萩神|興波岐命]]を、佐久の開拓神として祀っているのが、佐久神社の別名を持つ新海三社神社である。<br>新海三社神社の伝えによれば、この地に鎮座する[[意岐萩神|興波岐命]]が、父である建御名方神に会うために、遠く諏訪湖へ出向いていくその軌跡が、佐久之御渡りとなるという。冬の諏訪湖の御神渡りと呼ばれる氷丘脈には、実は三本あることは割りと知られていない。諏訪湖の御神渡りは、上社に鎮座する建御名方神が、下社に鎮座する妃神・八坂刀売神のもとを訪れる軌跡とされる。建御名方神の往復によって作られる南北方向の氷丘脈が、一之御渡り・二之御渡りであるが、あともう一本、稀に現れる三本目の東西方向の氷丘脈が、佐久之御渡りとされている<ref>信州以外にはあまり知られていない[https://note.com/kiyuu_s/n/n16dfc6b7e8b0 建御名方神の痕跡⑤佐久平]、杞憂氏ブログ(最終閲覧日:24-12-03)</ref>。 『諏方大明神画詞』では、御神渡りの一つを「佐久新開神社と小坂鎮守神社の祭神([[下光比売命|下照姫命]])が会った跡」と書いてあるとのことだ<ref>[https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/osaka.htm 小坂鎮守神社 岡谷市湊]、from八ヶ岳原人Home(最終閲覧日:24-12-01)</ref>。
* '''皇朝最古修武之地'''
* '''荒船山の亀松'''
: 荒船山麓の内山には明治時代の修身の教科書にものった「孝子亀松」の実話がある。天明8年(1788年)当時11歳の亀松(かめまつ)少年は、父親を襲うオオカミに対し、鎌一本で立ち向かい、オオカミの口に鎌を突き立て、父の危急を救った。この話は江戸にも聞こえ、幕府から呼び出され、褒美を貰ったというものである<ref>佐久市志編纂委員会編纂『佐久市志 民俗編 下』佐久市志刊行会、1990年、1119ページ。</ref>。
== その他 ==
=== 抜鉾明神について ===
: 上野國は、赤城大明神が一之宮だったが、赤城は二之宮と成り、他国の神である抜鉾大明神が一之宮と成った。<br>これは、赤城大明神が絹の機織りをするうちに、生糸が足りなくなってしまい、思い煩い「狗留吠國の好美女は財(宝)の神なので、生糸をお持ちであろう。貸して頂けないか。」と頼んだ。すると、好美女は快く承諾した。赤城大明神は、たいそう喜ばれて絹を織り終え、「これ程に豊かな財(宝)の神を他の國に移らせてはならない」と、赤城大明神は一位の座を好美女に譲り、当國に末永く留まり頂くため、二位の座についた。好美女は鉾を引き抜いて、脇に挟み抜提河より此の國に飛んで来たので、抜鉾大明神と云う。<br>赤城山の女神は龍神で、赤城姫がその後を継いだという<ref>[http://akagijinja.jp/densetu/sintousyu.html 赤城大明神と上野国の神々「神道集」]、赤城神社(最終閲覧日:24-12-03)</ref>。
== 私的解説 ==
[[意岐萩神]]の母神とされる貫鉾明神を中心にまとめてみた。第一に興味深い点は、子神とされているにもかかわらず、[[意岐萩神]]の事績が群馬県の側にないことである。その代わり、とはいえないかもしれないが、'''赤城神社'''に関わる伝承として、「都から流れてきた貴人の家に'''後妻として嫁いだ女'''とその'''弟'''の乱暴者の'''更科次郎兼光'''が、暴れまわって先妻の娘達を、水に投げ込んで皆殺しにする。その中の一人が赤城明神である。」という話がある。意地悪な継母と更科次郎兼光が信濃国に逃げようとしているところをみると、信濃国更級郡に関係する者かと考える。中世的にかなり誇張された話であり、残虐な内容から神々に対する畏敬の念が失せていると感じる。
しかし、この話は赤城明神と抜鉾明神の「一之宮交代神話」と関わっており、先妻が赤城明神、後妻が抜鉾明神のことを指すと考える。また、娘達が水に投げ込まれて殺される点は、干ばつによる雨乞いの儀式が伝承化したもので、上野国ではこれが「若い娘」に特化されていたことが窺える。静岡の見付天神も同様の思想である。
長野県更級郡篠ノ井には犬神の伝承がある。「'''荒れ狂った犬神が産土神を追いかけた'''」という話で、赤城明神の中世における縁起譚はこの話の類話と考える。[[意岐萩神]]は諏訪では、布施氏の犬神信仰と関連する神と思われる。布施氏とは[[意岐萩神]]という犬神を擁する金刺氏系の氏族の一つと思われ、干ばつの際に人身御供を用いる祭祀を行う傾向にある人々と考える。また、安曇氏系の神々を表向き採用する傾向が強いように思える。彼らが、尾張物部氏の氏族が先行して開拓していた佐久・上野に後から進出し、尾張物部氏よりも優位に立ち、特に主祭神である女神の交代をはかった、というのが「一之宮の祭神交代」の真相ではないか、と考える。この神は、長野県では必ずしも女性だけを人身御供に求めたのではない、と思えるが、群馬県では女性を狙い撃ちしたようである。女性の社会的地位を下げる目的もあったかもしれないと考える。また、群馬県と同じように、諏訪大社下社、更級郡を含む東信でも、尾張系物部氏の神から、安曇氏系を標榜する神へと祭神が交代した時期があるように考える。古代において、広範囲になんらかの権力の変動があったのかもしれない。
第二に興味深い点は、赤城明神、抜鉾明神ともに女神としての「固有名詞」を失っている点である。どちらも人々の大きな崇敬を受ける女神なので、名前は何らかの理由で意図的に消されたものと思われる。赤城明神は女神であり、龍蛇神とされる。この女神が尾張物部氏系の神であれば、真清田神社の摂社に祀られている萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)のような織物の女神であることが相応しいように思える。真清田神社のある一宮市には、他に'''[[阿豆良神社]]'''という出雲系の女神を祀る神社がある。この神社の名前から、さまざまな女神の名が発生しているように思う。その中に'''八須良姫命'''(やすらひめのみこと)という女神がいるのだが、管理人はこの女神が'''赤城明神'''ではないか、と考える。古代において、佐久・上野がほぼ同じ人たちによって開拓されたとすると、双方の神はほぼ同じ、というくらいに共通していた点があったと考える。
== 参考文献 ==
== 関連項目 ==
* [[意岐萩神]]
* [[布施八龍大権現]]:長野県篠ノ井における犬神の紹介
== 外部リンク ==