『古事記』や『日本書紀』では、[[天岩戸]]の神話において'''[[フトダマ|天太玉命]]'''(あめのふとだまのみこと)と[[天児屋命]](あめのこやねのみこと)が祭祀関係に携わったことが記され、両神は天孫降臨においてもともに付き従っている。そのうち天太玉命が忌部氏の祖、[[天児屋命]]が[[中臣氏]]の祖とされ、両氏は記紀編纂当時の朝廷の祭祀を司っていた。なお、記紀では[[天児屋命]]の方が天太玉命よりも重要な役割を担っているが、これは編纂当時の中臣氏と忌部氏の勢力差を反映しているとされる。逆に忌部氏側の『古語拾遺』ではその立場は逆転している。
天太玉命の出自については、『古語拾遺』では天太玉命は[[タカミムスビ高御産巣日神|高皇産霊神]](たかみむすびのかみ)の子であるとし、『[[新撰姓氏録]]』でもこれにならうが、『古事記』や『日本書紀』に出自の記載はなく真偽は明らかでない。(たかみむすびのかみ)の子であるとし、『新撰姓氏録』でもこれにならうが、『古事記』や『日本書紀』に出自の記載はなく真偽は明らかでない。
== 歴史 ==
*'''中央氏族としての忌部氏のみを記載'''
忌部氏は、[[5世紀]]後半から[[6世紀]]前半頃にその地位を確立したとされ{{Sfn|忌部氏は、5世紀後半から6世紀前半頃にその地位を確立したとされ<ref>忌部氏(世界大百科)}}、当初は「忌部[[カバネ|首]](おびと)」を名乗った{{Sfn|</ref>、当初は「忌部首(おびと)」を名乗った<ref>忌部氏(国史)}}。[[大和国]][[高市郡]]金橋村忌部(現 [[奈良県]][[橿原市]]忌部町)を[[本貫]](根拠地)とし{{Sfn|</ref>。大和国高市郡金橋村忌部(現 奈良県橿原市忌部町)を本貫(根拠地)とし<ref>忌部氏(国史)}}</ref>、現在も祖神の天太玉命を祀る[[天太玉命神社]]([[式内社|式内]][[名神大社]])が残る。また、出雲・紀伊・阿波・讃岐等に設置されていた[[品部]]を掌握して物資を徴収したほか、祭具の作製や神殿・宮殿造営に携わった。(式内名神大社)が残る。また、出雲・紀伊・阿波・讃岐等に設置されていた品部を掌握して物資を徴収したほか、祭具の作製や神殿・宮殿造営に携わった。
人物の初見は『[[日本書紀]]』[[大化]]元年([[645年]])条<ref group="原">『日本書紀』大化元年(645年)7月庚辰(14日)条。</ref>で、忌部首子麻呂が神幣を賦課するため[[美濃国]]に遣わされた{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。[[天武天皇]]元年([[672年]])<ref group="原">『日本書紀』天武天皇元年(672年)7月壬辰(3日)条。</ref>の[[壬申の乱]]に際しては、[[忌部子人|忌部首子人]](首または子首とも)は将軍[[大伴吹負]]に属し、荒田尾直赤麻呂とともに大和の古京を守備した{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。天武天皇9年([[680年]])<ref group="原">『日本書紀』天武天皇9年(680年)正月甲申(8日)条。</ref>には、子人は弟の[[忌部色夫知|色弗]](色夫知/色布知)とともに[[連]](むらじ)の[[カバネ]]を賜った{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。さらに天武天皇13年([[684年]])<ref group="原">『日本書紀』天武天皇13年(684年)12月己卯(2日)条。</ref>には、他の連姓の50氏族とともに[[宿禰]](すくね)のカバネを授かった{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。[[持統天皇]]4年([[690年]])<ref group="原">『日本書紀』持統天皇4年(690年)正月戊寅朔(1日)条。</ref>には持統天皇の即位にあたって色弗が神璽の剣・鏡を奉じ{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}、[[慶雲]]元年([[704年]])<ref group="原">『続日本紀』慶雲元年(704年)11月庚寅(8日)条。</ref>には子人が[[奉幣|伊勢奉幣使]]に任じられた。