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203 バイト除去 、 2025年1月29日 (水)
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面白いことに、『画詞』では諏訪大社にとって不都合な部分は省かれているだけでなく、「氷を成り立て、又剣を取り成しつ」の主語は(文脈で読むと)建御雷神から建御名方神に変わっている。つまり、「建御名方神が」氷や剣を出現させて自分の力を示した後、自発的に諏訪に鎮まったことになっている。同じ編者による『'''諏方大明神講式'''』(室町中期)<ref> 「諏方大明神講式」『神道大系 神社編30 諏訪』竹内秀雄編、神道大系編纂会、1982年、237-249頁。</ref><ref>http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-287105&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%AB%8F%E6%96%B9%E5%A4%A7%E6%98%8E%EF%A8%99%E8%AC%9B%E5%BC%8F%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=1, 諏方大明神講式, 国書データベース, 2024-09-01</ref>にも建御名方神が負けて逃げる場面が見当たらず、建御名方神の諏訪での誓いを引用した直後、彼を「和国根本之霊神」「日本草創之本主」と称えている<ref name="Maeda52-54">間枝遼太郎「『先代旧事本紀』の受容と神話の変奏―神社関連記事の利用をめぐって―」『國學院雑誌』第121巻第10号、2020年10月、52-54頁。</ref>。
間枝はタケミナカタの敗走の描写が円忠が利用した原資料では見られなかったからこそ神話の再解釈が可能になったとみており、「(国譲り神話が)『旧事本紀』という媒体に取り入れられ、新たな意味付けと利用のされ方がなされることで、変貌を遂げ、ついには建御名方神を称揚し得るものにまでなっていたのである。」と述べている間枝は建御名方神の敗走の描写が円忠が利用した原資料では見られなかったからこそ神話の再解釈が可能になったとみており、「(国譲り神話が)『旧事本紀』という媒体に取り入れられ、新たな意味付けと利用のされ方がなされることで、変貌を遂げ、ついには建御名方神を称揚し得るものにまでなっていたのである。」と述べている<ref name="Maeda52-54" />。
===== 諏訪での国譲り神話の受容 =====
京都諏訪氏の祖である円忠の手になる『画詞』は、あくまで京都で作られた縁起で、当初は京都でのみ読まれた。諏訪地方では、『古事記』や『旧事本紀』とは異なる諏訪大社の祭神にまつわる別の神話が伝えられており、中央政権の国譲り神話が知られていなかったと見られる。諏訪由来の文献で国譲り神話が見られるようになるのは、『画詞』のテキストが伝来・受容されて以降(17世紀)である。その際にも、建御名方神は『画詞』どおりに自らの意志で諏訪に留まることを誓った神として描かれている。中には建御名方神を出雲ではなく京都諏訪氏の祖である円忠の手になる『画詞』は、あくまで京都で作られた縁起で、当初は京都でのみ読まれた。諏訪地方では、『古事記』や『旧事本紀』とは異なる諏訪大社の祭神にまつわる別の神話が伝えられており、中央政権の国譲り神話が知られていなかったと見られる。諏訪由来の文献で国譲り神話が見られるようになるのは、『画詞』のテキストが伝来・受容されて以降(17世紀)である。その際にも、建御名方神は『画詞』どおりに'''自らの意志で諏訪に留まることを誓った神'''として描かれている。中には建御名方神を出雲ではなく'''天から降った神'''という、在地伝承の要素をそのまま引き継いでいる文書もある<ref>間枝遼太郎「[https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/91668 『諏方大明神画詞』の受容史 : 国譲り神話の扱いを中心に]」『国語国文研究』第160巻、2023年3月、18-24頁。</ref>。
<blockquote>初[[天照大御神|天照太神]]・[[高御産巣日神|高皇産霊尊]] 令経津主命・武甕槌命告大己貴命曰 汝宣挙葦原中国以奉天孫 朕亦使汝(イマシガ)孫子(ウミノコ)<small>ヲ</small>永保其福也 大己貴命以此言告<sub>二</sub>事代主命<sub>一</sub> 事代主命許諾 亦以告<sub>二</sub>此神<sub>一</sub> 此神不<sub>二</sub>肯軽<small>シク</small>許<small>サ</small><sub>一レ</sub>之<small>レヲ</small> 乃手ニ捧<sub>二</sub>千引石<sub>一</sub>而来<small>テ</small>曰<small>ク</small> 誰出<sub>二</sub>此言<small>ヲ</small><sub>一</sub>者 吾<small>レ</small>将<small>ニス</small>闘(タヽカ)<small>ハシメンハ</small><sub>レ</sub>力<small>ヲ</small>矣 '''即而悛悔遂挙中国以奉天孫 退至於科野国洲羽海 可謂至徳也 已民無得而称焉<ref>『論語』からの引用。父の意を量り国を季歴とその子の昌(文王)に譲った泰伯に建御名方神は譬えられている</ref><ref>間枝遼太郎「『諏方大明神画詞』の受容史 : 国譲り神話の扱いを中心に」『国語国文研究』第160巻、2023年3月、22頁。</ref>。''' 即今ノ所謂諏方大明神是也(諏訪盛條『信州諏方大明神縁起』、貞享元年(1684年))<ref>間枝遼太郎「『諏方大明神画詞』の受容史 : 国譲り神話の扱いを中心に」『国語国文研究』第160巻、2023年3月、21頁。</ref></blockquote>
:鹿児弓(かごゆみ)乃(の)真弓(まゆみ)乎(を)持弖(もちて)宮(みや)満茂里(まもり)矢竹心(やたけごころ)爾(に)仕布(つかふ)麻都連(まつれ)与(よ)と。彼の藤を挿し、後に繁茂して「藤洲羽森」と曰ふ。<small>(原漢文)</small><ref name="Moriyakeifu" /><ref>訓読は、山田肇『諏訪大明神』信濃郷土文化普及会 <信濃郷土叢書 第1編>、1929年、82-85頁に引用されている『諏訪神社旧記』に基づく。</ref></blockquote>
洩矢神以外に、[[建御名方神|タケミナカタ]]と対抗した[[矢塚男命]]<ref>今井野菊「がに河原長者」『諏訪ものがたり』甲陽書房、1960年、42-49頁。</ref><ref>今井野菊「蟹河原長者」『神々の里 古代諏訪物語』国書刊行会、1976年、46-51頁。</ref><ref name="miyasaka2">宮坂光昭「古墳の変遷から見た古氏族の動向」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会 編、人間社、2017年、79頁。</ref><ref>野本三吉「天白論ノート―民衆信仰の源流―」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会 編、人間社、2017年、251-252頁。</ref><ref name="miyachi2">宮地直一「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076393/39 諏訪地方の原始信仰]」『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、62頁。</ref>や[[武居大友主神]](諏訪下社の武居祝の祖)の伝承も存在する<ref name="shimosuwa2">伊藤富雄「第四編 上代の下諏訪」『下諏訪町誌 上巻』下諏訪町誌編纂委員会編、甲陽書房、1963年、565-566頁。</ref><ref name="miyasaka2" /><ref name="miyachi2" /><ref>上田正明 他『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、79頁。</ref><ref>[[長野県神社庁]]蓼科神社項長野県神社庁蓼科神社項</ref>。
===明神と大祝===
諏訪上社の祭神であるタケミナカタは諏訪上社の祭神である建御名方神は[[諏訪神党|'''神氏''']](じんし・みわし)の祖神とされ、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神としても信仰された。
明治の初め頃まで、諏訪上社には'''大祝'''という職位があり、これをつとめる諏訪氏氏身の者(主に童男)は諏訪明神([[建御名方神]])の身代わり、すなわち神体ないし生き神として信仰の対象であった。という職位があり、これをつとめる諏訪氏氏身の者(主に童男)は諏訪明神(建御名方神)の身代わり、すなわち神体ないし生き神として信仰の対象であった。
伝承によると、諏訪明神が8歳の童男に自分の装束を着せて、自分の「'''御正体'''」として定めたことにより大祝職が成立した。このことから大祝は代々、'''御衣着祝'''(みそぎほうり9とも呼ばれ、「神」という姓を名乗り、即位式を行い職を相次いできた<ref> 諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、717頁。</ref>。
いっぽう『諏方大明神画詞』「祭第一 春上」と『神氏系図(前田氏本)』においては、'''有員'''という人が初代大祝とされている。
{{quotation|{{Ruby|祝|はふり}}は神明の垂跡の初め、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、「我に於いて体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。<blockquote>祝は神明の垂跡の初め、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、「我に於いて体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。<br/>これ則ち{{Ruby|御衣祝|みそぎはふり}}{{Ruby|有員|ありかず}}、神氏の始祖なり。家督相次ぎて今にその職を忝くす。これ則ち御衣祝(みそぎはふり)有員(ありかず)、神氏の始祖なり。家督相次ぎて今にその職を忝くす。<ref name="Hanaya" /><ref name="Kanai" />}}
他文献では、有員は[[桓武天皇|桓武]]・[[平城天皇]]の時代の人物とされている{{efn|『前田氏本神氏系図』のように[[用明天皇|用明]]朝に生きていた人とする文献もある。}}他文献では、有員は桓武・平城天皇の時代の人物とされている<ref>『前田氏本神氏系図』のように用明朝に生きていた人とする文献もある。</ref><ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、102-103頁。</ref>。桓武天皇の皇子とする文書もある<ref>宮地直一『[https://books.google.co.jp/books?id=UHYSgY4lTZcC&pg=PA44#v=onepage&q&f=false 諏訪史 第2巻 後編]』信濃教育会諏訪部会、1937年、92-95頁。</ref><ref>金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」『諏訪信仰の発生と展開』古代部族研究会編、人間社、2018年、72-78頁。</ref><ref>諏訪教育会編『[https://books.google.co.jp/books?id=u2Mf7Ef60FkC&pg=PA11 諏訪史年表]』諏訪教育会、1938年、11-12頁。</ref>。なお、実在したかどうかは定かではなく、大祝家の始祖ではなく中興の祖とする説や<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、712-713頁。</ref>、中世に創作された人物とする説<ref name="aoki2012ohori"/>がある([[タケミナカタ#神氏と大祝について|後述]])。がある。
これに対して『異本[[阿蘇氏#上古の氏としての阿蘇氏|阿蘇氏これに対して『異本阿蘇氏]]系図』と『神氏系図(大祝家本)』は、[[科野国造]]家([[金刺氏]])出身の{{読み仮名|'''神子'''|くまこ}}{{efn|(くまこ)<ref>「熊子」「熊古」とも表記される。}}</ref>、または{{読み仮名|'''乙頴'''|おとえい}}が初代大祝で、[[用明天皇]]2年([[587年]])に社壇を設けたとし、大祝家本『神氏系図』では有員が神子の子孫とされている(おとえい)が初代大祝で、用明天皇2年(587年)に社壇を設けたとし、大祝家本『神氏系図』では有員が神子の子孫とされている<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、711-712頁。</ref><ref>金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」『諏訪信仰の発生と展開』古代部族研究会編、人間社、2018年、38-47頁。</ref>が、以上の2系図は創作が多分に含まれ、'''古代の歴史的事実を明らかにする力は持たない'''偽書であると証明されている<ref>間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」『国語国文研究』161号(北海道大学国文学会、2023年8月)</ref>。
===天竺波提国王===

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