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222 バイト追加 、 2025年1月18日 (土)
<blockquote>朝陽(あさひ)地区の大部分は、尾張(おわり)郷に属していたと考えられる。尾張郷は、朝陽地区から古牧(こまき)地区にかけての一帯で、その名は、尾張氏の部民(支配する人民)が住んだことに由来するといわれる。尾張氏は大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)の高尾張から出た氏族だという。北尾張部(おわりべ)の尾張神社の境内には、尾張氏の祖を祭る尾張姓霊神社がある。この地区に尾張氏の一族が住んでいたのかもしれない<ref>[https://adeac.jp/nagano-city/texthtml/d100080/ct00000008/ht005600 尾張郷]、長野市/長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森(最終閲覧日:25-01-18)</ref>。</blockquote>
とある。尾張郷は平安時代には成立していたとされるが、長野市でも一等地にあるため古くから開けていた地と考える。尾張神社の祭神は'''日子八井命'''([[神八井耳命]]の子神)でこちらは多氏の祖である。愛知県犬山市は'''丹羽氏'''と呼ばれる多氏の子孫の勢力範囲だったが、大縣神社には'''大縣大神'''を祀る。この神には諸説あるが境内内摂社の姫の宮に「大荒田命の娘・玉姫命」が祀られていることから、大縣大神とは'''大荒田命'''のことと考える。この神は「'''丹羽氏の神'''」とも考えるが、葛木氏の神とも考えられる。大縣神社・国縣神社の神話は、賀茂の玉依姫の神話に類似しているため、彼らは'''大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)'''から出た氏族と考える。尾張氏と婚姻して混血しているが、元は'''高尾張近辺から、尾張氏と共に愛知県に移動した葛木氏'''ではないだろうか。「年神信仰」は、国縣神社、葛城御歳神社とも共通する。とすれば、多氏系の氏族のうち、少なくとも'''丹羽氏'''は欠史八代の中に祖神を組み込んで、葛木氏から独立した氏族といえるのではないか。彼らが、尾張で「'''ほぼ尾張氏'''」を名乗りながら「'''[[神八井耳命]]'''」を祖神とするようになり、それが'''諏訪氏の移動に関連して水内郡に渡来したのが水内郡の金刺氏'''と考える。だから最初は[[神八井耳命]]の子孫を名乗る尾張氏(要は'''丹羽氏''')と称していたのではないだろうか。)と称していたのではないだろうか。水内郡金刺氏は、かつて斎宮を立てていた痕跡があるが、賀茂氏にも斎院を立てる習慣があった。長野県では、それは善光寺の大本願へと移行しているように思う。
そこで、後に金刺氏と名乗るようになる水内郡の尾張氏(丹羽氏)が自らを葛木氏と考えていたのであれば、葛城時代から祀っていた鍛冶に関する風神とも想像される'''[[志那都比古神]]'''を祀っていてもおかしくないと考える。一方、諏訪氏に関連した氏族である、という点を強調したければ、[[伊勢津彦]]を祀っても不思議ではない。どちらが祀られていたのかは、祀った金刺氏の'''気持ち次第'''で決められたことと思う。このように考えれば、[[伊勢津彦]]は、便宜的に[[志那都比古神]]の名前を変えただけの神ともいえると考える。

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