=== 神階 ===
[[嘉祥]]元年([[848年]])、霊験を現して国府の火事を鎮火したため従五位下が授けられ、官社に預かった。嘉祥元年(848年)、霊験を現して国府の火事を鎮火したため従五位下が授けられ、官社に預かった。
[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])正五位上、同年従四位下、同6年官社に預かり(重複か)、同10年従四位上、同13年正四位下、同15年正四位上、同16年従三位、[[元慶]]2年([[878年]])正三位と著しく累進した。貞観4年(862年)正五位上、同年従四位下、同6年官社に預かり(重複か)、同10年従四位上、同13年正四位下、同15年正四位上、同16年従三位、元慶2年(878年)正三位と著しく累進した。
=== 神職 ===
当初より[['''伊福部氏]]'''が神職を世襲したとされる。伊福部氏は『因幡国伊福部臣古志』によると、[[大国主|'''大己貴命]]の神裔を称すが、第8世を[[ニギハヤヒ|櫛玉神饒速日命]]'''の神裔を称すが、第8世を櫛玉神'''饒速日命'''とするなどの混乱がある。また、第14世の'''武牟口命'''を直接の祖として、[[平安時代]]の第36世を直接の祖として、平安時代の第36世'''助茂臣'''(すけもちのおみ)の子から2流に別れ、第37世'''厚孝宿禰'''(あつたかのすくね)の流れが「国造」「大宮司」と称して、第55世[[伊福部信世]]の時に戦乱により国を去ったこともあったが、一貫して奉仕したと伝える。[[明治13年]]([[1880年]])第65世の信世(作曲家[[伊福部昭]]の祖父)の時に神職を離れた。(あつたかのすくね)の流れが「国造」「大宮司」と称して、第55世伊福部信世の時に戦乱により国を去ったこともあったが、一貫して奉仕したと伝える。明治13年(1880年)第65世の信世(作曲家伊福部昭の祖父)の時に神職を離れた。
== 境内 ==
[[File:Ube-jinja, shaden.jpg|thumb|250px|right|{{center|社殿}}]]
[[File:Ube-jinja, Souriseki-2.jpg|thumb|220px|right|{{center|双履石}}]]
* 本殿
*: 『[[二十二社註式]]』にある[[大化]]4年([[648年]])の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年([[1898年]])の再建。正面三間側面二間の[[流造|三間社流造]]の正面一間に[[向拝]]を[[破風|縋破風]]で付け[[千木]]・[[鰹木]]を置く。同年、本殿階下の正面一間側面二間の[[切妻造|切妻造妻入]]の幣殿と、方三間の[[入母屋造]]妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿(幣殿に接続)も再建された。以上いずれも[[檜皮葺]]。なお、明治32年([[1899年]])発行の[[五円紙幣]]にある拝殿はこの時のもの。