伏羲は、'''[[黄帝]]'''・[[神農]]などのように古代世界においてさまざまな文化をはじめてつくった存在として語られる。
伏羲は、'''八卦を河の中から現われた龍馬の背中にあった模様から発明した'''と易学では伝承されており、これを「河図」(かと)と呼ぶ。易学の書物である『易経』も、著者として伏羲が仮託されている。伏羲は,書契をつくって結縄の政治にかえた。はじめて婚姻の制度をたて,一対の皮をたがいに交換するならわしをさだめた。漁猟を民に教えた。かくて,民はみな帰服(伏)したので,宓(伏)犠氏という。また,と易学では伝承されており、これを「河図」(かと)と呼ぶ。伏羲は,書契をつくって結縄の政治にかえた。はじめて婚姻の制度をたて,一対の皮をたがいに交換するならわしをさだめた。漁猟を民に教えた。かくて,民はみな帰服(伏)したので,宓(伏)犠氏という。また,'''牛,羊,豕などを家畜として養い'''、'''それを庖厨で料理して,犠牲として神祇や祖霊をまつった'''。それゆえに庖犠ともいう。そして,三十五弦の瑟をつくった。龍の瑞祥があったので,官名に龍という字をつけ,その軍隊を龍師といった。木徳の王であった。春の季節に合う行事をあげて,政令として記した。陳(河南省)に都した。太山(泰山。山東省)に登り,封を行った。王位について百十一年で崩じた。それゆえに庖犠ともいう。そして,三十五弦の瑟をつくった。龍の瑞祥があったので,官名に龍という字をつけ,その軍隊を龍師といった。木徳の王であった。春の季節に合う行事をあげて,政令として記した。陳(河南省)に都した。太山(泰山。山東省)に登り,封を行った。王位について百十一年で崩じた<ref>野口定男ら訳:『史記』「三皇本紀」。中国古典文学大系 10,平凡社,昭和 50 年 12 月初版第 月初版第 9 刷。『史記』三皇本紀は,司馬遷が著したものではなく,唐の司馬貞がその補いとして書いたものである。司馬貞にしては,『史記』にこの補完が必須不可欠である。</ref><ref>神話伝説における伏羲氏の位相、孫樹林</ref>。
『易経』繋辞下伝には、伏羲は天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる易学の書物である『易経』も、著者として伏羲が仮託されている。『易経』繋辞下伝には、伏羲は天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる<ref name="中国" />。漢の時代に班固が編纂した『白虎通義』によると、家畜飼育・調理法・漁撈法・狩り・鉄製を含む武器の製造を開発し、婚姻の制度を定めたとある。
[[古琴]]、瑟を発明したとの伝承がある。