諏訪地方では'''[[建御名方神]]'''(諏訪大社の祭神)の御子神とされている。近世の伝承では建御名方神の次男で、父神の世継ぎとして諏訪を治めたと伝わる<ref>宮坂喜十『諏訪大社の信仰』1938年、3頁。</ref>。また武居氏(下社の社家)の家伝によると、父神の寵愛を受けた出早雄神は弟の[[意岐萩神]](ここでは武居氏の祖先とされる)から諏訪の地を譲り授けられ、意岐萩神とともにそこに鎮座した<ref>飯田好太郎 編『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765166/3 諏訪史料 巻之四]』諏訪史料編纂所、1898年、1頁。</ref>。また、信濃国の開拓に功績をたてた13柱の御子神の一つに数えられる<ref>三輪磐根『諏訪大社』学生社、1978年、33-34頁。</ref>。
[[岡谷市]]にある[[出早雄小萩神社]]では、父神と協力して、諏訪の開拓に貢献したと伝わり、また神社の社家の祖神とも伝わる。岡谷市にある出早雄小萩神社では、父神と協力して、諏訪の開拓に貢献したと伝わり、また神社の社家の祖神とも伝わる。
また[[皆神山]]に鎮座する[[熊野]]また皆神山に鎮座する熊野'''出速雄神社'''では[[松代町 (長野県)|海津]]地域開拓の祖神で農耕の神とされる。そして皆神山の[[神官家]]([[関屋氏]]が世襲して来た)は[[建武 (日本)|建武]]2年(1335年)の[[青沼合戦]]において[[四宮氏]]([[四宮荘]])や[[保科氏]]([[保科荘]])・[[夏目氏]]([[石川荘]])らと建武政権に対して反乱を起こし[[船山守護所]]を襲ったが撃退鎮圧された。以後この神社の祭祀は[[松代]]の[[玉依姫神社]]の[[神主]][[小河原氏]]が担い、[[江戸時代]]には信濃の[[天台宗|天台]]本山派([[熊野三山]]を拠点とし[[聖護院]]を本寺とする)[[修験]]として地域[[山伏]では海津地域開拓の祖神で農耕の神とされる。そして皆神山の神官家(関屋氏が世襲して来た)は建武2年(1335年)の青沼合戦において四宮氏(四宮荘)や保科氏(保科荘)・夏目氏(石川荘)らと建武政権に対して反乱を起こし船山守護所を襲ったが撃退鎮圧された。以後この神社の祭祀は松代の玉依姫神社の神主小河原氏]支配の勢力を拡大した。が担い、江戸時代には信濃の天台本山派(熊野三山を拠点とし聖護院を本寺とする)修験として地域山伏支配の勢力を拡大した。
== 系譜 ==