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* 津田左右吉は、「古事記にのみ見えるタケミナカタの神は、オホナムチの命の子孫の名の多く列挙して此の書のイヅモ系統の神の系譜には出ていゐないものであるから、これははるか後世の人の附加したものらしい」と推考し、諏訪と結びつけたのは「此の地に古くから附近の住民の呪術祭祀を行ふ場所があつて、それが有名であつたためであらう」と書いていた<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、90-91頁。</ref>。
* 松村武雄(1925年)によると、建御名方神が登場する場面は「国土譲渡の交渉譚に添加せられた一挿話であつて、本原的なものではないであらう。」この説においては、建御名方神は諏訪地方にいた「皇祖側に対抗する一勢力」の代表者であって、その話が逆用的に国譲り神話に持ち込まれたとされている<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、91頁。</ref>。辻春緒(『日本建国神話之研究』)も同様の説を立てていた<ref>辻春緒『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020881/266 日本建国神話之研究]』緑星社、1925年、493-494頁。</ref><ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、92-93頁。</ref>。
* [[太田亮]](1926年)はこの説話を「根拠なき虚構の神話」と考え、[[中臣氏]]が信奉していた鹿島神(タケミカヅチ)の神威を高めるために挿入された、皇室にはどんなに抵抗するとも勝てないという教訓のあるものとしていた{{efn|太田亮(1926年)はこの説話を「根拠なき虚構の神話」と考え、中臣氏が信奉していた鹿島神(タケミカヅチ)の神威を高めるために挿入された、皇室にはどんなに抵抗するとも勝てないという教訓のあるものとしていた<ref>「思ふにこは何等根拠なき虚構の神話ならんと思はる。即ち事代主命の従順たるに対して、頑強に反対する一神を要するは、説話を興味あらしむる上に極めて必要の事なれば、我国神話の大いに発達するに及びて、自ら附け加へられたる一挿話に過ぎざるべし。命がかかる犠牲的人物として神話上に表はれ給へる事は、一に武勇に秀で給へるによれど、一面より云へば恐惶の外なき次第と云ふべし。宜なる哉、書紀は全然之を採らざりし事を。<br/>又思ふ、こは中臣氏が自家の奉ずる鹿島神の威を高めんとて作為したるものにあらざるか。…此神話は命が如何なる智謀も、武略も我が皇室に対し奉りては、抵抗するを得ざるを教へん為のものにあらざるかとも思はる。」}}</ref><ref>太田亮『諏訪神社誌 第1巻』、官幣大社諏訪神社附属諏訪明神講社、1926年、24-25頁。</ref><ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、91-92頁。</ref>。
* 郷土史家の栗岩英治は、国譲りの葛藤は出雲だけでなく他所(伊勢・美濃・信濃など)にも起こり、これが一つにまとまったのが『古事記』の国譲り神話とした。「所謂神代国譲の条を斯く解剖的に研究して来ると、健御名方神が諏訪に鎮座ましますのが不思議でも何でもなくなる。又出雲風土記や、出雲国造神賀詞に御名方神のないのが当然で、書紀の編者が抹殺したのも、国譲伝説の混乱に気付かなかった故であらう。」<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、93頁。</ref>
* 宮地直一(1931年)は、建御名方神の説話の原型が「出雲人の伝承を母胎とする」諏訪地方に発生したもので、これが後に大国主の国譲り神話と融合されたという説を唱えた。また、タケミカヅチとの力競べは皇祖側の威光を高めるために創作されたもので、建御名方神には劣敗者という性格が元々なかったと主張した。宮地によると、「勝敗の懸隔余りに甚だしいあたりは、かの[[野見宿禰]]と[[当麻蹴速]]との角力に関する物語と同様の仕組になり、従つて之に対するのと同様の気持を起ささる。」<ref>「大己貴神の国譲説話がもともと出雲に於ける古伝であつた如く、建御名方神のそれの原型は、信濃(中でも講義の諏訪を中心とする地方)に発生して、前者と等しく出雲人(必ずしも両者の系統を一とする要はない)の伝承を母胎とするものながら、その初めは相互の間に何の交渉をも持たなかつたのであらう。然るに上記の事由により、地方的文化現象の一として、恐らくは神社そのものの信仰に先んじ、信濃から大和へと移入さるることとなると、年諸の経過とともにいつしか根幹たる出雲伝説、その中でも之が中心たる大己貴の神のそれに統一されてしまつたので、その間には多分数次の自然的や人為的淘汰を経て、徐々に内容上の変化をも生じたことであらう。(中略)その中で前段たる力競べの譚は、いかにも優勝者たる武甕槌神の武勇を頌へて天孫系の威光を輝かさうとする意図が明白で、勝敗の懸隔余りに甚だしいあたりは、かの[[野見宿禰]]と[[当麻蹴速]]との角力に関する物語と同様の仕組になり、従つて之に対するのと同様の気持を起ささる。(中略)要するに、此の神話はその初め諏訪地方に起つて他と関係なく、又劣敗者としての性格は、本来の属性でなかつたと考へたいのである。」</ref><ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、99-101頁。</ref>更に、諏訪の祭神が「諏訪神」なる自然神からタケミナカタという人格神に変化したのが「古事記成立の奈良朝を余り遠ざからぬ前代の事」という見解を示した更に、諏訪の祭神が「諏訪神」なる自然神から建御名方神という人格神に変化したのが「古事記成立の奈良朝を余り遠ざからぬ前代の事」という見解を示した<ref>『[https://books.google.co.jp/books?id=u2Mf7Ef60FkC&pg=RA1-PA1 諏訪史年表]』諏訪教育会編、1938年、1頁。</ref>。*[[高階成章 (神職)|高階成章]](1935年)はタケミナカタを「古代信濃に於ける信仰の対象」とし、『古事記』の神話が信濃国に起こった国土奉還が出雲神話に統合されて成立したものとしていた。高階曰く、「諏訪神社の信仰が旧来の原始信仰から建御名方神に対する軍神又は武神信仰に移りつつあつた時代に…中臣氏がその氏神とする処の鹿島神にも武神としての信仰が台頭し来りて、古事記編纂といふ好機に中臣氏が氏族制度時代の習として自己の氏神の武徳を称へんとして、その犠牲に建御名方神を以てなした。」なお『日本書紀』にこの記述が見られないのは、『書紀』が公の文書であるがために中臣氏が力を注がれ得なかったからである高階成章(1935年)は建御名方神を「古代信濃に於ける信仰の対象」とし、『古事記』の神話が信濃国に起こった国土奉還が出雲神話に統合されて成立したものとしていた。高階曰く、「諏訪神社の信仰が旧来の原始信仰から建御名方神に対する軍神又は武神信仰に移りつつあつた時代に…中臣氏がその氏神とする処の鹿島神にも武神としての信仰が台頭し来りて、古事記編纂といふ好機に中臣氏が氏族制度時代の習として自己の氏神の武徳を称へんとして、その犠牲に建御名方神を以てなした。」なお『日本書紀』にこの記述が見られないのは、『書紀』が公の文書であるがために中臣氏が力を注がれ得なかったからである<ref>高階成章「古事記に於ける建御名方神の再検討」『信濃』4 (11)、信濃郷土研究会、1935年、363-369頁。</ref>。* [[肥後和男]](1938年)は、『日本書紀』[[景行天皇]]四十年条にみられる信濃坂([[神坂峠]])において肥後和男(1938年)は、『日本書紀』景行天皇四十年条にみられる信濃坂(神坂峠)において[[ヤマトタケル]]が白い鹿の姿をした山の神を殺す話がタケミナカタの神話と「同一の根源に出るもの」、しかのみならずその「一つ前の形」という説を立てた。この説において、諏訪地方に祀られていた鹿神(山の神)が「タケミナカタ」という人格神に変化して、大国主の武勇を象徴するものとして出雲の国譲り神話に組み込まれた。それに加えて、千引の石を持ち上げたタケミナカタに対する剣神タケミカヅチの勝利を「石に対する金属の勝利」をあらわし、またはタケミカヅチを酒の神、すなわち農業の神とも解釈できることから「狩猟文化に対する農業文化の勝利」を意味するとも推量したが白い鹿の姿をした山の神を殺す話がタケミナカタの神話と「同一の根源に出るもの」、しかのみならずその「一つ前の形」という説を立てた。この説において、諏訪地方に祀られていた鹿神(山の神)が「建御名方神」という人格神に変化して、大国主の武勇を象徴するものとして出雲の国譲り神話に組み込まれた。それに加えて、千引の石を持ち上げた建御名方神に対する剣神タケミカヅチの勝利を「石に対する金属の勝利」をあらわし、またはタケミカヅチを酒の神、すなわち農業の神とも解釈できることから「狩猟文化に対する農業文化の勝利」を意味するとも推量した<ref>肥後和男「建御名方神について」『日本神話研究』 河出書房、1938年、113-137頁。</ref>。* [[三品彰英]](1957年)は、コトシロヌシとタケミナカタを出雲の神である大国主の子として国譲り神話に添加された他所(大和と信濃)の神々としていた。三品によると、「(タケミナカタの)名は『古事記』がオオクニヌシの神系譜を述べた条にも見えていないほどで、オホクニヌシとの関係は極めて薄い。タケミカツチ・フツヌシの神は大和平定をはじめ、ヤマトの祭政支配拡大の先頭に立つ神であり、科野のタケミナカタとの交渉も他の地方での話であったのではあるまいか。いわゆる「手取りの誓約」を語るもので、それが国ゆずりの代表的な出雲の物語に添加されることはそれほど無理ではない。」三品彰英(1957年)は、コトシロヌシと建御名方神を出雲の神である大国主の子として国譲り神話に添加された他所(大和と信濃)の神々としていた。三品によると、「(建御名方神の)名は『古事記』がオオクニヌシの神系譜を述べた条にも見えていないほどで、オホクニヌシとの関係は極めて薄い。タケミカツチ・フツヌシの神は大和平定をはじめ、ヤマトの祭政支配拡大の先頭に立つ神であり、科野の建御名方神との交渉も他の地方での話であったのではあるまいか。いわゆる「手取りの誓約」を語るもので、それが国ゆずりの代表的な出雲の物語に添加されることはそれほど無理ではない。」<ref>三品彰英、「[https://doi.org/10.14890/minkennewseries.21.1-2_17 出雲国ゆずり神話について : その歴史的再構成]」『文化人類学』 1957年 21巻 1-2号 p.17-23)、日本文化人類学会, {{doi|(doi, 10.14890/minkennewseries.21.1-2_17}}。2_17)。</ref>* [[伊藤富雄|伊藤冨雄]](1963年)はこの説話について、「天皇家の所伝がそのまま書記されたものか、あるいは鹿島神社の伝承が採用されたものかは判らないが、おそらく其の出所は、諏訪ではなかったであろう」と述べ、諏訪の[[諏訪氏|神氏]]には『古事記』とは全く別な神話(『信重解状』に書かれている入諏神話)があることを指摘した伊藤冨雄(1963年)はこの説話について、「天皇家の所伝がそのまま書記されたものか、あるいは鹿島神社の伝承が採用されたものかは判らないが、おそらく其の出所は、諏訪ではなかったであろう」と述べ、諏訪の神氏には『古事記』とは全く別な神話(『信重解状』に書かれている入諏神話)があることを指摘した<ref>伊藤富雄「第四編 上代の下諏訪」『下諏訪町誌 上巻』下諏訪町誌編纂委員会編、甲陽書房、1963年、569-570頁。</ref>。
* [[金井典美]](1982年)は『古事記』におけるタケミナカタの神話には北陸地方([[越国|高志国]])の族長が山陰地方([[出雲国]])がヤマト王権に服属した後も反抗し続けたといった史実が反映しているのではないかと考えた。彼曰く、「(タケミナカタが)出雲からはるばる諏訪まで逃げてきたというのは、いかに神話でもしっくりしないが、北陸あたりから[[糸魚川]]あたりの水系を通って諏訪まで逃げてきたというなら、あり得そうな話である。そして高志はそれ以前出雲に服属した事実があって、[[ヤマタノオロチ]]やヌナカワヒメの神話が成立したとも想像される。」<ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、7-9頁。</ref>
[[ファイル:180205 Lake Suwa omiwatari 03.jpg|サムネイル|<center>[[2018年]]に出現した御神渡り</center>]]
* [[松前健]]は、力竸べ説話が後世の「河童のわび証文」型の説話(河童(水の精霊)と人が争って河童が腕を引き抜かれ誓いをする説話)と一致することから、元々はタケミナカタが諏訪湖の水神を打ち負かす説話であったのが中央神話に換骨奪胎されたとする説を提唱した{{Sfn|建御名方神(国史)}}<ref name="松前健2007">松前健 『日本神話の謎がよく分かる本』 大和書房、2007年、pp. 136-137。</ref>。
* [[宮坂光昭]](1987年)は『古事記』に書かれている説話を諏訪に伝わる入諏伝承の脚色とみて、『古事記』の編纂に関わった、[[科野国造]]家([[金刺氏]])と同族関係に当たる[[多氏]]の[[太安万侶]]がこの地方神話をもとに「タケミナカタ」という神を創作して、諏訪の独特の祭神として記載したという説を唱えた<ref>宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、17-19頁。</ref>。この説においては、「(タケ)ミナカタ」(=「水像」あるいは「水潟」)という神名は諏訪湖に見られる[[御神渡り]]という神秘的な自然現象に因んだ名前で、大祝代々の総称とされている<ref>宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、30-33頁。</ref>。

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