「会津比売神」の版間の差分

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明治四十一年(一九〇八)国の合併令により、五明の布制神社に御神体などを引き渡した。<br>
 
明治四十一年(一九〇八)国の合併令により、五明の布制神社に御神体などを引き渡した。<br>
 
昭和に入り長野県が養蚕業の隆盛期に、皇居の紅葉山の養蚕神社からご分体され、さらに再分体された更科郡養蚕神社が篠ノ井の地に奉斎されていたのであるが、神社が諸般の情勢により解体されることになり、識者の尽力により昭和二十三年ご神体と社殿とを布施神社跡地に遷座されたものである。</blockquote>
 
昭和に入り長野県が養蚕業の隆盛期に、皇居の紅葉山の養蚕神社からご分体され、さらに再分体された更科郡養蚕神社が篠ノ井の地に奉斎されていたのであるが、神社が諸般の情勢により解体されることになり、識者の尽力により昭和二十三年ご神体と社殿とを布施神社跡地に遷座されたものである。</blockquote>
<blockquote>臼女さん(うすめさん)(石臼)<br>
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<blockquote>'''臼女さん'''(うすめさん)(石臼)<br>
 
此の石臼は古くより、「碓女(うすめ)」さんと、親しみをもって呼ばれ、唐臼区の守護神として多くの人々に崇拝されて来た。<br>
 
此の石臼は古くより、「碓女(うすめ)」さんと、親しみをもって呼ばれ、唐臼区の守護神として多くの人々に崇拝されて来た。<br>
 
神社不在の時期に於いても区民により手厚く保護され、現在は臼女神社の象徴として一体をなし信仰されているものである。</blockquote>
 
神社不在の時期に於いても区民により手厚く保護され、現在は臼女神社の象徴として一体をなし信仰されているものである。</blockquote>

2025年2月2日 (日) 12:20時点における版

会津比売命(かいづひめのみこと/あいづひめのみこと[1])は、長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の人物(女神)。

概要

会津比売神社では会津比売命と表記する

「かいづ」の名称の由来は不明であるが、神社周辺の松代一帯は古来海津(かいづ)と呼ばれており、松代城も海津城と呼ばれていた。

『日本三代実録』にも見える式外社「會津比賣神」に比定される会津比売神社の祭神で、『松代町史』では建御名方神の子・出速雄命の御子で、初代科野国造の武五百建命の妻とされる。また伊津速比売神と同人とする説もある。しかし、「阿蘇」系図では武五百建命の妻を建御名方神の五世孫・会知早雄命の娘としており[2]、会知早雄命は伊豆早雄命の四世孫となる。

一説に神陵は妻女山の古墳とされ、山の名前の由来とされる。

貞観八年六月一日従四位下を賜る[3]

系譜

会津比売神社では建御名方神の子出早雄命の娘とされ、初代科野国造の妻と伝えるが、建御名方神の孫・六老彦神の娘で、兄妹に鴨羽神草奈井比売神がいるとする系図もある[4]

一方可毛羽神や草奈井比売神は建御名方神の子・伊豆速雄命の子とされ、箭津安賀多神(六老彦神)は兄とする説もある[5]

祀る神社

  • 会津比売神社(長野県長野市松代町)

関連するかもしれない神社

臼道祖神(臼道祖神社)

長野県千曲市八幡辻にある神社。境内由緒は以下の通り。

道祖神は村の入口、部落の境などの路傍に立っている。自然石のまま、あるいは台石の上の棹に道祖神と刻まれたものが多い。そして賽の神といわれるように、悪霊や邪悪の村への侵入を防ぎ、道行く人を守る神である。また、近在では正月、道祖神の前でドンド焼が執り行われるのが普通である。

峰・姨捨・郡方面から下る道筋のこの辻の道祖神は、自然石で臼を台座としているが、臼は女性の代名詞で、その上に道祖神が乗り陰陽をあらわしている、との見方もある。流造りの社殿に安置され、鳥居まである特異な道祖神である。したがって臼道祖神と呼ばれ、臼道祖神社として崇敬される理由であろう。

祭日は九月二十四日で、子供相撲が公民館の庭でひき続き実施されている。なお、大頭祭の際には武水別神社へ向う頭人は拝礼し、干魃の夏には雨乞の人びとによって、御本尊の道祖神は川底へ沈座された。かつては八月一日に、虫送りの行事もあったという。(略)

斎森神社

長野県千曲市八幡にある神社。祭神は建御名方神か。境内由緒は以下の通り。

この斎の森神社の歴史は鎌倉時代、およそ七〇〇年ほど前に建立されたといわれ、中世以降は諏訪大明神といわれた。東山道信濃路の峠(諸説あるが一本松峠であると思われる)を下って、川中島平に入る入口を守る神(塞いの森)として、また、武水別神社に対して先の森であったといわれている。

この地積は八日市場と称され、八幡宮(武水別神社)を遙かに拝む交通上の要所であった。八の日に市が定期的に開催されたのは鎌倉時代からであろうか。これより先の郡下の年貢を、遠路木曽路を越えて、大和の国まで運ぶ交易(米や絹などを金銭にかえて上納)の場であったといわれている。

今は主なる祭事として、毎年十二月十日から五日間行われる大頭祭(新嘗祭)の大衆の出発神社として、伝統を引き継いでいる。(略)

臼女神社

長野県長野市篠ノ井布施高田臼女にある神社。旧布施神社。境内由緒は以下の通り。境内内に石臼(自然石、玄武岩)があり、信仰の対象となっている。いつからどのように鎮座したのかは不明。

古老の言い伝えによると、神社の前身は六百数十年続いた鎌倉時代の豪族布施八郎と後に天照大神とを奉斎した布施神社である。

明治四十一年(一九〇八)国の合併令により、五明の布制神社に御神体などを引き渡した。

昭和に入り長野県が養蚕業の隆盛期に、皇居の紅葉山の養蚕神社からご分体され、さらに再分体された更科郡養蚕神社が篠ノ井の地に奉斎されていたのであるが、神社が諸般の情勢により解体されることになり、識者の尽力により昭和二十三年ご神体と社殿とを布施神社跡地に遷座されたものである。

臼女さん(うすめさん)(石臼)

此の石臼は古くより、「碓女(うすめ)」さんと、親しみをもって呼ばれ、唐臼区の守護神として多くの人々に崇拝されて来た。

神社不在の時期に於いても区民により手厚く保護され、現在は臼女神社の象徴として一体をなし信仰されているものである。

関連項目

参照

  1. 謙信鞍掛の松/会津比売神社」長野市「信州・風林火山」特設サイト。
  2. 鈴木真年「阿蘇」『百家系図稿』巻六。
  3. 諏訪史料叢書.巻28 73項
  4. 「諏訪下社大祝武居祝系圖略」『諏訪史料叢書.巻28』諏訪教育会、昭和11年、73頁。
  5. 守矢実久「健御名方命御系圖」『諏訪神社略縁起』中村甚之助、明治53年、10頁。