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107 バイト除去 、 2025年1月30日 (木)
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諏訪に伝わる入諏神話は、土着の氏族が外来侵入勢力に降伏して統治権を委譲した出来事に基づいていると考えられている。
諏訪上社の神長官(じんちょうかん)を務めてきた[[守矢氏]]はかつて[[諏訪地域|諏訪]]・[[上伊那地域|上伊那]]を中心とするはかつて諏訪・上伊那を中心とする[[ミシャグジ]]祭政を統括した氏族であったと考えられている<ref name="suwashishi686">諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、686-691頁。</ref>。守矢氏がミシャグジ奉斎を「専らの役」とし、諏訪の各郷村のミシャグジ信仰は守矢氏の手に握られていたと思われる<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、98頁。</ref>。しかし、守矢氏が諏訪に進入してきた勢力(のちの[[諏訪氏|神氏]])との覇権争いに敗れた後、祭政権の交代が行われ、{{読み仮名|大祝|おおほうり}}と呼ばれる幼い[[現人神]]を中心とする新しい体制が生まれた)との覇権争いに敗れた後、祭政権の交代が行われ、大祝(おおほうり)と呼ばれる幼い現人神を中心とする新しい体制が生まれた<ref name="suwashishi686"/>。
この大祝は、諏訪明神(建御名方神)の「御正体」(いわば身代わり)とされ、生き神として信仰の対象となった<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、693-695, 717頁。</ref>。この新しい体制の中で、大祝を祀る祭司・{{読み仮名|神長|かんのおさ}}の位置に置かれた守矢氏は、古来の神ミシャグジを立てて、大祝の即位を執行し、祭事を司った。こうして大祝と守矢一体の祭政が確立した。この新しい体制の中で、大祝を祀る祭司・神長(かんのおさ)の位置に置かれた守矢氏は、古来の神ミシャグジを立てて、大祝の即位を執行し、祭事を司った。こうして大祝と守矢一体の祭政が確立した<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、692-693頁。</ref>。
諏訪に進入した神氏を[[稲作]]技術をもたらした[[出雲族|出雲系民族]]([[弥生人]])とする説や諏訪に進入した神氏を稲作技術をもたらした出雲系民族(弥生人)とする説や<ref name="nhkonbashira"/><ref> 「第二節 地主神洩矢ノ神」『茅野市史 上巻(原始・古代)第二編』 茅野市、1986年、932-933頁。</ref>、[[三輪氏]]系統に属する一族とする説、[[ヤマト王権|大和朝廷]]に仕える馬飼集団の系統に属する一族とする説、大和朝廷に仕える馬飼集団の[[金刺氏]]([[科野国造]]家の一派)とする説がある<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、615-623、686-696頁。</ref><ref name="owa213"> 大和岩雄 『信濃古代史考』 名著出版、1990年、213頁。</ref>。
なおこの時代には[[横穴式石室]]の古墳が5世紀から6世紀中頃まで続いた在地型の[[弥生時代の墓制#方形周溝墓(方形低墳丘墓)|周溝墓]](いわゆる[[フネ古墳]]型古墳)に取って代わるが、これは金刺氏の影響だと考えられる<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、692、694頁。</ref>。また、『信重解状』「御神宝物事」に見られる、「大明神が天降った時に[[真澄の鏡]]([[銅鏡]])・[[八栄の鈴]]・[[鞍|唐鞍]]・[[轡]]を持ってきた」という伝承が、諏訪に横穴石室古墳文化と飼馬技術を持ってきた人々の姿を表しているとも解釈されている<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、683頁。</ref><ref>宮坂光昭「第二章 強大なる神の国」『御柱祭と諏訪大社』 筑摩書房、1987年、33頁。</ref>。

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