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その後、[[八十梟帥]]や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。『日本書紀』神武紀には、この時の様子を次のように記している。
{{Quotation|{{<blockquote>ruby-ja|皇師|みいくさ}}遂に長髄彦を{{ruby-ja|撃|う}}つ。{{ruby-ja|連|しきり}}に戦ひて{{ruby-ja|取勝|か}}つこと{{ruby-ja|能|あた}}はず。時に{{ruby-ja|忽然|たちまち}}にして{{ruby-ja|天|ひ}}{{ruby-ja|陰|し}}けて{{ruby-ja|雨氷|ひさめ}}ふる。乃ち{{ruby-ja|金色|こがね}}の{{ruby-ja|霊|あや}}しき{{ruby-ja|鵄|とび}}有りて、飛び来りて{{ruby-ja|皇弓|みゆみ}}の{{ruby-ja|弭|はず}}に止れり。其の{{ruby-ja|鵄|とび}}{{ruby-ja|光|ひか}}り{{ruby-ja|曄煜|てりかかや}}きて、{{ruby-ja|状|かたち}}{{ruby-ja|流電|いなびかり}}の如し。是に由りて、長髄彦が{{ruby-ja|軍卒|いくさのひとども}}、皆迷ひ{{ruby-ja|眩|まぎ}}えて、{{ruby-ja|復|また}}{{ruby-ja|力|きは}}め戦はず。{{ruby-ja|長髄|ながすね}}は{{ruby-ja|是|これ}}{{ruby-ja|邑|むら}}の{{ruby-ja|本|もと}}の{{ruby-ja|號|な}}なり。因りて{{ruby-ja|亦|また}}以て人の名とす。{{ruby-ja|皇軍|みいくさ}}の、鵄の{{ruby-ja|瑞|みつ}}を得るに乃りて、{{ruby-ja|時人|ときのひと}}{{ruby-ja|仍|よ}}りて{{ruby-ja|鵄邑|とびのむら}}と{{ruby-ja|號|なづ}}く。今{{ruby-ja|鳥見|とみ}}と云ふは、{{ruby-ja|是|これ}}{{ruby-ja|訛|よこなば}}れるなり。|岩波日本古典文学大系}}れるなり。(岩波日本古典文学大系)</blockquote>
ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の[[鳶]]に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子がここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が[[天磐船]]に乗って降臨した。名を[[ニギハヤヒ邇芸速日命|櫛玉饒速日命]]という。私の妹の[[ミカシキヤヒメ|三炊屋媛]]を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べ、主君が天つ神の子である証拠として、を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は[[邇芸速日命|饒速日命]]を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べ、主君が天つ神の子である証拠として、[[天羽々矢|天の羽羽矢]]と步靫(かちゆき)を見せた。天皇が同じ物を見せると長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命に殺された。と步靫(かちゆき)を見せた。天皇が同じ物を見せると長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った[[邇芸速日命|饒速日命]]に殺された。
== 中世の伝説 ==
『[[曽我物語]]』等では『曽我物語』等では[[安日彦]](あびひこ)という兄弟がいるとされる。また中世の武将の[[安藤氏]](後の[[子爵]][[秋田氏|秋田家]])が長髄彦の子孫であると自称した。(あびひこ)という兄弟がいるとされる。また中世の武将の安藤氏(後の子爵秋田家)が長髄彦の子孫であると自称した。
== 一説 ==
旧[[添下郡]]鳥見郷(現[[生駒市]]北部・[[奈良市]][[富雄駅|富雄]]地方)付近に勢力を持った豪族という説がある。[[生駒市]]白庭台の住宅地に長髄彦の本拠地があった場所とされる碑が建っている。旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近に勢力を持った豪族という説がある。生駒市白庭台の住宅地に長髄彦の本拠地があった場所とされる碑が建っている。
『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』のいずれにも父祖の記載はなく、系譜は不明である。

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