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264 バイト追加 、 2024年12月28日 (土) 19:14
== 概要 ==
『古事記』では本名を'''高比売命'''(たかひめのみこと)、亦の名を'''下光比売命'''・'''下照比売命'''(したてるひめのみこと)、『日本書紀』では'''下照姫'''・'''下照媛'''、亦の名は'''高姫'''、'''稚国玉'''(わかくにたま)、『先代旧事本紀』地神本紀では'''下照姫命'''と記述される。三輪氏族の系図では'''[[阿陀加夜努志多伎吉比売|阿陀加夜怒志多伎吉比売命]]'''(あだかやぬしたききひめのみこと)の別名を伝える。
 
「勘注系図」には「天道姫命 亦たの名 屋乎止女命(ヤヲトメノミコト)、亦たの名[[下光比売命|高光日女]]たこひめ命(タコヒメノミコト)、亦たの名 祖母命也」とある([[豊受大神]]参照のこと)。
『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、葦原中国平定のために[[高天原]]から遣わされた[[天若日子]]が、[[大国主神]]に取り入ってあわよくば葦原中国を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。[[天若日子]]が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いた[[天若日子]]の父の天津国玉神や[[天若日子]]の妻子らは葦原中国に降臨し、[[天若日子]]の喪屋を建て殯を行った。そこに[[阿遅鉏高日子根神]]が訪れたが、その姿が[[天若日子]]にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは[[天若日子]]が生き返ったと喜んだ。[[阿遅鉏高日子根神]]は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を[[神度剣|大量]]で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、[[阿遅鉏高日子根神]]の名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』正伝にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、[[天若日子|天稚彦]]の妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみ下照媛の名が登場し、[[阿遅鉏高日子根神|味耜高彦根神]]の妹であるとしている。

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