墨子の記述を見て、まず印象に残ったのは
<blockquote>天はミャオ族に克服を課した。雷が連続し、鳥をともなった者がミャオ族の指導者を射た。</blockquote>
という記述だ。'''天がミャオ族に何かを求め、それがうまく行かなかったから指導者は射殺された'''、という意味と管理人は感じた。夏の創設に関して、「天の命令に逆らって殺された者」といえば鯀しかいないようにも思える。そして墨子の中のミャオ族の立場は「天の敵対者」ではなく「天の部下」のように思えるのだ。神話・伝承の中で「敵」が殺されることは珍しくないが、「部下」が罰で殺される、というのはやや珍しいパターンのように感じる。また「天に逆らった者が射殺される」というモチーフはいかにもニムロド系の伝承を彷彿とさせる。しかも「鳥をともなった者」といったら、管理人には「'''[[天若日子]]'''」しか思い浮かばない。都合の良いことに、中国にも[[天若日子]]の類話がある。日本神話の[[天若日子]]には、雉女を射て、その矢が自分に跳ね返ってくる、というまさにニムロド的な性質があるのだが、その点は墨子の記述を優先して割愛した。には、雉女を射て、その矢が自分に跳ね返ってくる、というまさにニムロド的な性質があるのだが、その点は墨子の記述を優先して割愛した。弓を扱う者である点は、[[黄帝]]や[[羿]]と一致する性質である。 壮族の「'''雷神の子神の蛙神'''」が人身御供を伴う食人の禁止に関わる神であって、かつ水神としての性質を持つ蛙であれば、[[テーセウス]]、黄帝と元は「同じもの」だったと述べるしかない。
== 関連項目 ==