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* 1998年(平成10年)8月1日 - 「風間神社太々神楽獅子舞」が長野市選択無形民俗文化財に選択される。 | * 1998年(平成10年)8月1日 - 「風間神社太々神楽獅子舞」が長野市選択無形民俗文化財に選択される。 | ||
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| + | 『式内社調査報告』には、伊勢社、金刀比羅社、天村雲社、猿田彦社、天神社、三宝荒神社、伊勢社の名がある<ref>[https://genbu.net/data/sinano/kazama_title.htm 風間神社]、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)</ref>。 | ||
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| − | + | 持統天皇の時代に勅祭が行われた中で目立つのは、広瀬大忌神(水神)、竜田風神(風神)である。同時に勅使が遣わされたといっても、全てが風神であったとは限らないと考える。風間神社は古くからの「風の神」を祀る神社とされるが、諏訪大社の建御名方命が風神として祀られたのかはやや疑問に思う。ただし、奈良県にある廣瀬大社では、[[饒速日命]]を[[伊勢津彦|櫛玉命]]と風神のように定義しているので、建御名方命が[[饒速日命]]あるいはその子の宇摩志麻遅命に類する神であれば、かつては風神とされていた可能性もあるように思う。 | |
| − | 祭神に揺れがあって、地元の方にも迷う部分があると考える。祭神を[[速飄別命|飄別神]]とした場合には、出雲に'''[[速飄別命|波夜都武自和氣命]]'''(はやつむじわけのみこと)という神がいる。しかし、ごくマイナーな神であるため、風間神社の[[速飄別命|飄別神]]は、[[伊勢津彦| | + | 祭神に揺れがあって、地元の方にも迷う部分があると考える。祭神を[[速飄別命|飄別神]]とした場合には、出雲に'''[[速飄別命|波夜都武自和氣命]]'''(はやつむじわけのみこと)という神がいる。しかし、ごくマイナーな神であるため、風間神社の[[速飄別命|飄別神]]は、[[志那都比古神|級長津彦命]]と思われる。[[饒速日命]]を[[伊勢津彦|櫛玉命]]とした場合、『先代旧事本紀』に高御産巣日神は[[饒速日命]]に関して[[速飄神]]を使役しており、[[饒速日命]]([[伊勢津彦]])と関連性が深いのは[[速飄神]]と考えられるので、逆に「関連性が薄い」のは[[速飄別命|飄別神]]の方で、これに[[伊勢津彦]]とは異なる風神である[[志那都比古神]]を充てる方が妥当と考えるからである。 |
| − | + | [[伊勢津彦|伊勢津彦命]]は「伊勢から信濃の国に去った」という伝承から、神話が諏訪大社の建御名方命と類似していることが挙げられる。全国を見回して、全体的・相対的に見れば、これは物部氏と関連性が深いと思われる、諏訪大社上社の建御名方命として良いのではないだろうか。 | |
| − | + | 現在の長野県長野市(信濃国水内郡)で有力な氏族は、水内郡金刺氏で、[[神八井耳命]]を祖神とする多氏の一派である。風間神社は彼らが祀った神社と考える。長野市にあるのだし、現在では聖徳太子信仰の神社でもあって、聖徳太子と縁が深いのは善光寺とも類似している。 | |
水内郡金刺氏は'''「祀る神」を変える傾向がある'''ように考える。埴科郡には祝神社などで金刺氏祖神の武五百建命を祀っているが、水内郡(主に現在の長野市)には武五百建命を祀った神社がみられない。かつて水内大社と呼ばれた可能性がある神社には、健御名方富命彦神別神が祀られ、善光寺・当信神社などで歳神(年神)が祀られ、更に時代が下ると善光寺そのものが信仰の主体になっていくように思える。善光寺周辺には諏訪系の神社が乱立している。 | 水内郡金刺氏は'''「祀る神」を変える傾向がある'''ように考える。埴科郡には祝神社などで金刺氏祖神の武五百建命を祀っているが、水内郡(主に現在の長野市)には武五百建命を祀った神社がみられない。かつて水内大社と呼ばれた可能性がある神社には、健御名方富命彦神別神が祀られ、善光寺・当信神社などで歳神(年神)が祀られ、更に時代が下ると善光寺そのものが信仰の主体になっていくように思える。善光寺周辺には諏訪系の神社が乱立している。 | ||
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<blockquote>朝陽(あさひ)地区の大部分は、尾張(おわり)郷に属していたと考えられる。尾張郷は、朝陽地区から古牧(こまき)地区にかけての一帯で、その名は、尾張氏の部民(支配する人民)が住んだことに由来するといわれる。尾張氏は大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)の高尾張から出た氏族だという。北尾張部(おわりべ)の尾張神社の境内には、尾張氏の祖を祭る尾張姓霊神社がある。この地区に尾張氏の一族が住んでいたのかもしれない<ref>[https://adeac.jp/nagano-city/texthtml/d100080/ct00000008/ht005600 尾張郷]、長野市/長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森(最終閲覧日:25-01-18)</ref>。</blockquote> | <blockquote>朝陽(あさひ)地区の大部分は、尾張(おわり)郷に属していたと考えられる。尾張郷は、朝陽地区から古牧(こまき)地区にかけての一帯で、その名は、尾張氏の部民(支配する人民)が住んだことに由来するといわれる。尾張氏は大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)の高尾張から出た氏族だという。北尾張部(おわりべ)の尾張神社の境内には、尾張氏の祖を祭る尾張姓霊神社がある。この地区に尾張氏の一族が住んでいたのかもしれない<ref>[https://adeac.jp/nagano-city/texthtml/d100080/ct00000008/ht005600 尾張郷]、長野市/長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森(最終閲覧日:25-01-18)</ref>。</blockquote> | ||
| − | とある。尾張郷は平安時代には成立していたとされるが、長野市でも一等地にあるため古くから開けていた地と考える。尾張神社の祭神は'''日子八井命'''([[神八井耳命]]の子神)でこちらは多氏の祖である。愛知県犬山市は'''丹羽氏'''と呼ばれる多氏の子孫の勢力範囲だったが、大縣神社には'''大縣大神'''を祀る。この神には諸説あるが境内内摂社の姫の宮に「大荒田命の娘・玉姫命」が祀られていることから、大縣大神とは'''大荒田命'''のことと考える。この神は「'''丹羽氏の神'''」とも考えるが、葛木氏の神とも考えられる。大縣神社・国縣神社の神話は、賀茂の玉依姫の神話に類似しているため、彼らは'''大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)''' | + | とある。尾張郷は平安時代には成立していたとされるが、長野市でも一等地にあるため古くから開けていた地と考える。尾張神社の祭神は'''日子八井命'''([[神八井耳命]]の子神)でこちらは多氏の祖である。愛知県犬山市は'''丹羽氏'''と呼ばれる多氏の子孫の勢力範囲だったが、大縣神社には'''大縣大神'''を祀る。この神には諸説あるが境内内摂社の姫の宮に「大荒田命の娘・玉姫命」が祀られていることから、大縣大神とは'''大荒田命'''のことと考える。この神は「'''丹羽氏の神'''」とも考えるが、葛木氏の神とも考えられる。大縣神社・国縣神社の神話は、賀茂の玉依姫の神話に類似しているため、彼らは'''大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)'''から出た氏族と考える。葛木氏の系図には「'''荒田彦'''足尼」という名も見える。 |
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| + | 尾張氏と婚姻して混血しているが、葛木氏の一派が'''高尾張近辺から、尾張氏と共に愛知県に移動して丹羽氏と名乗った'''のではないだろうか。「年神信仰」は、善光寺、国縣神社、葛城御歳神社に共通する。とすれば、多氏系の氏族のうち、少なくとも'''丹羽氏'''は欠史八代の中に祖神を組み込んで、葛木氏から独立した氏族といえるのではないか。彼らが、尾張で「'''ほぼ尾張氏'''」を名乗りながら「'''[[神八井耳命]]'''」を祖神とするようになり、それが'''諏訪氏の移動に関連して更に水内郡に移動したのが水内郡金刺氏'''と考える。だから最初は[[神八井耳命]]の子孫を名乗る尾張氏(要は'''丹羽氏''')と称していたのではないだろうか。水内郡金刺氏は、かつて斎宮を立てていた痕跡があるが、賀茂氏にも斎院を立てる習慣があった。長野県では、その習慣は善光寺の大本願へと移行しているように思う。 | ||
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| + | そこで、後に金刺氏と名乗るようになる水内郡の尾張氏(丹羽氏)が葛木氏出身であれば、葛城時代から祀っていた鍛冶に関する風神とも想像される'''[[志那都比古神]]'''を祀っていてもおかしくないと考える。 | ||
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| + | 長野県の諏訪大社下社と鉢伏山周辺には犬神信仰があり、[[出早雄命]]と[[意岐萩神]]が犬神に相当すると考えている。また長野県の民間伝承の犬神である[[早太郎]]は「'''疾風'''」という意味と考えられ、本来は[[速飄神]]という風神でもあったと管理人は考えている。[[志那都比古神|級長津彦命]]が、風神であり、鍛冶(火)に関する神であれば、これは諏訪信仰では[[意岐萩神]]に相当する神と考える。「萩」という字には「'''火'''」という文字が含まれており、火神の性質も示唆されるように思うからである。ただし、水内郡では[[意岐萩神]]に代わって'''健御名方富命彦神別神'''が祀られているように思う。これは「子神」という性質を強調して、風神である、というよりは[[須佐之男命]]の子神である[[年神]]に近い神として現されていると考える。古代において建御名方命に「風神」としての性質があったのであれば、「健御名方富命彦神別神」にも近い性質があったかもしれないが、想像の域を出ない。ただ、風間神社で「健御名方富命彦神別神」が祀られており、現在、善光寺の「奥の院」と言われる駒形岳駒弓神社で健御名方富命彦神別神・年神・聖徳太子がほぼ一体のように祀られていることと、風間神社の事実上の祭神が聖徳太子であることを併せて考えれば、古代において、風間神社で健御名方富命彦神別神が祀られていたとしても不思議ではないと考える。 | ||
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| + | 以上より、風間神社の[[飄別神]]とは、[[志那都比古神]]、健御名方富命彦神別神、[[飄別神]]などが該当すると考える。もしかしたら、[[出早雄命]]と[[意岐萩神]]が'''対'''であるように、栗田の'''狗天伯社'''と対になる神社で、'''狗天伯社'''には[[伊勢津彦]]あるいは[[出早雄命]]が祀られていたかもしれないと考える。 | ||
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2025年1月21日 (火) 21:35時点における最新版
風間神社(かざまじんじゃ)は、長野県長野市風間にある神社。由緒書きの主祭神は正殿:級長津彦命、左相殿:事代主命、右相殿:倉稲魂命。式内社に比定される。御神形は聖徳太子像である。
概要[編集]
社伝によると、当社は『日本書紀』に記されている水内神とされ、持統天皇五年(691)勅使が遣わされ、諏訪大社と共に勅祭が行われた。ただし、水内神は水内郡の名神大社で、水内大社とも称される健御名方富命彦神別神社のこととする説もある。
『日本書紀』には「辛酉に、使者を遣して、竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ。」とある[1]。
また、当社は『三代実録』に記されている飄別神とも考えられる[2]。
860年(貞観2年)「飄別神に叙位」との記述がある。979年(天元2年)には諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され風間姓を名乗り、これが各地の風間氏の発祥となっている。
神社に伝わる「太々神楽獅子舞」は1822年(文政5年)から続く、歌詞がなく太刀を持つ雄獅子であり、1998年(平成10年)に長野市選択無形民俗文化財に選択されている[3]。
御神形について[編集]
風間神社の御神形は、吉田神社と深い関係がある。吉田神道は、唯一神を信じる神道で、「唯一神道」または「唯一宗源神道」と呼ばれた。聖徳太子が学んだ神道は「宗源道」といい、それは、日本古来の唯一神教の神道だった。それゆえ、聖徳太子像が風間神社の御神形になった。
由緒書きの変遷[編集]
現在の由緒書き
裾花川は昔、暴れ川と呼ばれるほど氾濫が多く、人々を悩ませていました。村人たちは、裾花川の流れを治め、豊かな恵みを願い、田畑を開墾し「五穀豊穣」を祈念し、お社を祀られたと言われています。
過去の由緒書き
『風間神社』は、日本の正史と言われる「六国史」に、推古天皇五月八日(596年)には『竜田風神信濃須波・水内神を祀らしむ』とみえています。そして清和天皇貞観二年二月(860年)『飄別神に叙位』の事が書かれています。
この『水内神』『飄別神』はいずれも風間神社で有ると言われています。
とあり、祭神は伊勢津彦命、級長津彦命、級長戸辺命、建御名方命とされていたという。
風間神社の祭神を伊勢津彦命と考証したのは有名な国学者の伴信友であるが、当社で伊勢津彦命が祀られるようになったのは信友のこの説を取り入れた結果だろう。それ以前に当社で伊勢津彦命が祀られたことがあったかどうかは分からない。ちなみに信友は、やはり水内郡の式内社、伊豆毛神社の祭神のことも伊勢津彦命だとしている。彼によるこうした考証にはどういう根拠があったのだろうか。おそらく、伊勢津彦命が信濃に退去したという『伊勢国風土記』逸文の割註をふまえ、風間神社は風神を祀っているからで、伊豆毛神社は出雲系の祭神を祀っているから祭神は伊勢津彦命だ、というふうに考えたのだろう[4]。
歴史[編集]
- 596年(推古天皇5年)8月 - 日本書紀に記述が見える。
- 860年(貞観2年)2月 - 日本三代実録に記述が見える。
- 979年(天元2年) - 諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され、風間氏を名乗る。
- 1697年(元禄10年) - 諏訪社から風間大明神に改称[5]。
- 1822年(文政5年9月) - 神祇管領長吉田家により風間神社と改称。
- 1998年(平成10年)8月1日 - 「風間神社太々神楽獅子舞」が長野市選択無形民俗文化財に選択される。
摂社など[編集]
『式内社調査報告』には、伊勢社、金刀比羅社、天村雲社、猿田彦社、天神社、三宝荒神社、伊勢社の名がある[6]。
私的考察[編集]
持統天皇の時代に勅祭が行われた中で目立つのは、広瀬大忌神(水神)、竜田風神(風神)である。同時に勅使が遣わされたといっても、全てが風神であったとは限らないと考える。風間神社は古くからの「風の神」を祀る神社とされるが、諏訪大社の建御名方命が風神として祀られたのかはやや疑問に思う。ただし、奈良県にある廣瀬大社では、饒速日命を櫛玉命と風神のように定義しているので、建御名方命が饒速日命あるいはその子の宇摩志麻遅命に類する神であれば、かつては風神とされていた可能性もあるように思う。
祭神に揺れがあって、地元の方にも迷う部分があると考える。祭神を飄別神とした場合には、出雲に波夜都武自和氣命(はやつむじわけのみこと)という神がいる。しかし、ごくマイナーな神であるため、風間神社の飄別神は、級長津彦命と思われる。饒速日命を櫛玉命とした場合、『先代旧事本紀』に高御産巣日神は饒速日命に関して速飄神を使役しており、饒速日命(伊勢津彦)と関連性が深いのは速飄神と考えられるので、逆に「関連性が薄い」のは飄別神の方で、これに伊勢津彦とは異なる風神である志那都比古神を充てる方が妥当と考えるからである。
伊勢津彦命は「伊勢から信濃の国に去った」という伝承から、神話が諏訪大社の建御名方命と類似していることが挙げられる。全国を見回して、全体的・相対的に見れば、これは物部氏と関連性が深いと思われる、諏訪大社上社の建御名方命として良いのではないだろうか。
現在の長野県長野市(信濃国水内郡)で有力な氏族は、水内郡金刺氏で、神八井耳命を祖神とする多氏の一派である。風間神社は彼らが祀った神社と考える。長野市にあるのだし、現在では聖徳太子信仰の神社でもあって、聖徳太子と縁が深いのは善光寺とも類似している。
水内郡金刺氏は「祀る神」を変える傾向があるように考える。埴科郡には祝神社などで金刺氏祖神の武五百建命を祀っているが、水内郡(主に現在の長野市)には武五百建命を祀った神社がみられない。かつて水内大社と呼ばれた可能性がある神社には、健御名方富命彦神別神が祀られ、善光寺・当信神社などで歳神(年神)が祀られ、更に時代が下ると善光寺そのものが信仰の主体になっていくように思える。善光寺周辺には諏訪系の神社が乱立している。
長野市には「尾張部」という地名があり、
朝陽(あさひ)地区の大部分は、尾張(おわり)郷に属していたと考えられる。尾張郷は、朝陽地区から古牧(こまき)地区にかけての一帯で、その名は、尾張氏の部民(支配する人民)が住んだことに由来するといわれる。尾張氏は大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)の高尾張から出た氏族だという。北尾張部(おわりべ)の尾張神社の境内には、尾張氏の祖を祭る尾張姓霊神社がある。この地区に尾張氏の一族が住んでいたのかもしれない[7]。
とある。尾張郷は平安時代には成立していたとされるが、長野市でも一等地にあるため古くから開けていた地と考える。尾張神社の祭神は日子八井命(神八井耳命の子神)でこちらは多氏の祖である。愛知県犬山市は丹羽氏と呼ばれる多氏の子孫の勢力範囲だったが、大縣神社には大縣大神を祀る。この神には諸説あるが境内内摂社の姫の宮に「大荒田命の娘・玉姫命」が祀られていることから、大縣大神とは大荒田命のことと考える。この神は「丹羽氏の神」とも考えるが、葛木氏の神とも考えられる。大縣神社・国縣神社の神話は、賀茂の玉依姫の神話に類似しているため、彼らは大和国(奈良県)葛城(かつらぎ)から出た氏族と考える。葛木氏の系図には「荒田彦足尼」という名も見える。
尾張氏と婚姻して混血しているが、葛木氏の一派が高尾張近辺から、尾張氏と共に愛知県に移動して丹羽氏と名乗ったのではないだろうか。「年神信仰」は、善光寺、国縣神社、葛城御歳神社に共通する。とすれば、多氏系の氏族のうち、少なくとも丹羽氏は欠史八代の中に祖神を組み込んで、葛木氏から独立した氏族といえるのではないか。彼らが、尾張で「ほぼ尾張氏」を名乗りながら「神八井耳命」を祖神とするようになり、それが諏訪氏の移動に関連して更に水内郡に移動したのが水内郡金刺氏と考える。だから最初は神八井耳命の子孫を名乗る尾張氏(要は丹羽氏)と称していたのではないだろうか。水内郡金刺氏は、かつて斎宮を立てていた痕跡があるが、賀茂氏にも斎院を立てる習慣があった。長野県では、その習慣は善光寺の大本願へと移行しているように思う。
そこで、後に金刺氏と名乗るようになる水内郡の尾張氏(丹羽氏)が葛木氏出身であれば、葛城時代から祀っていた鍛冶に関する風神とも想像される志那都比古神を祀っていてもおかしくないと考える。
長野県の諏訪大社下社と鉢伏山周辺には犬神信仰があり、出早雄命と意岐萩神が犬神に相当すると考えている。また長野県の民間伝承の犬神である早太郎は「疾風」という意味と考えられ、本来は速飄神という風神でもあったと管理人は考えている。級長津彦命が、風神であり、鍛冶(火)に関する神であれば、これは諏訪信仰では意岐萩神に相当する神と考える。「萩」という字には「火」という文字が含まれており、火神の性質も示唆されるように思うからである。ただし、水内郡では意岐萩神に代わって健御名方富命彦神別神が祀られているように思う。これは「子神」という性質を強調して、風神である、というよりは須佐之男命の子神である年神に近い神として現されていると考える。古代において建御名方命に「風神」としての性質があったのであれば、「健御名方富命彦神別神」にも近い性質があったかもしれないが、想像の域を出ない。ただ、風間神社で「健御名方富命彦神別神」が祀られており、現在、善光寺の「奥の院」と言われる駒形岳駒弓神社で健御名方富命彦神別神・年神・聖徳太子がほぼ一体のように祀られていることと、風間神社の事実上の祭神が聖徳太子であることを併せて考えれば、古代において、風間神社で健御名方富命彦神別神が祀られていたとしても不思議ではないと考える。
以上より、風間神社の飄別神とは、志那都比古神、健御名方富命彦神別神、飄別神などが該当すると考える。もしかしたら、出早雄命と意岐萩神が対であるように、栗田の狗天伯社と対になる神社で、狗天伯社には伊勢津彦あるいは出早雄命が祀られていたかもしれないと考える。
参考文献[編集]
- Wikipedia:風間神社(最終閲覧日:25-01-15)
- 『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社
- 風間神社(長野市風間)、ハッシー27のブログ(最終閲覧日:25-01-16)
- 風間神社、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 風間神社 - 長野県神社庁
- http://homepage3.nifty.com/nisikazama/ , 風間神社太々神楽保存会 , 20040712201316
脚注[編集]
- ↑ 日本書紀3、小島憲之他校注・訳、日本古典文学全集、小学館、p519
- ↑ 風間神社、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)
- ↑ 風間神社太々神楽獅子舞 - 長野市文化財データベース
- ↑ (2)伊勢津彦探しは神社から【風間神社】、神社の世紀(最終閲覧日:25-01-18)
- ↑ 127 風間神社 〜式内社に改名した風神〜 - 週刊長野
- ↑ 風間神社、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)
- ↑ 尾張郷、長野市/長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森(最終閲覧日:25-01-18)