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[[ファイル:Mount Ibuki top 2011-03-06.jpg|thumb|right|250px|伊吹山頂の日本武尊像]]
; 古事記
: 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が[[月経|生理]]中であることを知り、次のように歌う。尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売が生理中であることを知り、次のように歌う。
: 「ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) ひはぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり」“天の香具山の上を飛ぶ白鳥のような、白くか細いあなたの腕を、私は抱こうとするが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの着物の裾には月(=月経)が見えているよ”
: 美夜受比売は答えて次のように歌った。
: 「高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ」“ 高く光り輝く太陽の皇子よ。国を八隅まで支配される私の大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたのだから、わたしの着物の裾に月が出たのは当然です ”
: 二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、[[伊吹山]](岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。二人はそのまま結婚する。そして倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。
; 日本書紀
: 経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
; 古事記
: 素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と[[言挙げ]]をし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の[[関ケ原町]]また[[米原市]]とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの'''白い大猪'''が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。: 弱った体で大和を目指して、当芸・[[杖衝坂]]・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野([[三重県]][[亀山市]])に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
; 日本書紀
: 伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。
; 古事記
: 倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは[[白鳥陵|陵墓]]を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。
: すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。
: また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。
: 白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。
: これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌<ref>「大御葬歌」は[[昭和天皇]]の大喪の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。「大御葬歌」は昭和天皇の大喪の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。</ref>)となった。
; 日本書紀
: 父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥<ref>当時の白鳥は現在の[[ハクチョウ]]以外にも、[[白鷺]]など白い鳥全般を指した。</ref>となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。
; 古事記
: 白鳥は伊勢を出て、[[河内国|河内]]の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
; 日本書紀
: 白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原([[奈良県]][[御所市]])→河内古市([[大阪府]][[羽曳野市]])とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部([[健部]]・[[建部]])を日本武尊の御名代とした。白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。
:『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。
== 墓 ==
[[File:Nobono Otsuka Kofun haisho.JPG|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]<br />([[三重県]][[亀山市]])}}]][[File:Kotohikihara Tomb, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 (大和)白鳥陵<br />([[奈良県]][[御所市]])}}]][[File:Karusato Otsuka Kofun, haisho.jpg|thumb|200px|right|{{center|日本武尊 [[軽里大塚古墳|(河内)白鳥陵]]<br />([[大阪府]][[羽曳野市]])}}]][[陵墓|墓]]は、[[宮内庁]]により次の3ヶ所に治定されている墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている<ref>『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。</ref>(能褒野墓に白鳥2陵を付属)。* '''能褒野墓'''(のぼののはか、[[三重県]][[亀山市]]田村町、{{Coord|34|53|4.36|N|136|28|55.09|E|region:JP-24|name=能褒野墓(日本武尊墓)}})(のぼののはか、三重県亀山市田村町*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[能褒野王塚古墳]]」。墳丘長90メートルの[[前方後円墳]]で、[[4世紀]]末の築造と推定される。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[奈良県]][[御所市]]富田、{{Coord|34|26|43.92|N|135|45|1.25|E|region:JP-24|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})(しらとりのみささぎ、奈良県御所市富田)*: 宮内庁上の形式は長方丘。かつては「権現山」・「天王山」とも{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}</ref>。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}。一説には[[円墳]]</ref>。一説には円墳<ref name="大和白鳥陵"/>。* '''白鳥陵'''(しらとりのみささぎ、[[大阪府]][[羽曳野市]]軽里、{{Coord|34|33|4.61|N|135|36|14.00|E|region:JP-24|name=白鳥陵(日本武尊墓)}})(しらとりのみささぎ、大阪府羽曳野市軽里)*: 宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「[[軽里大塚古墳]]」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、[[5世紀]]後半の築造と推定される。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「軽里大塚古墳」・「前の山古墳」・「白鳥陵古墳」。墳丘長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。
=== 古典史料の記述 ===
!地域!!日本書紀!!古事記!!延喜式!!現在の治定
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|'''伊勢'''||能褒野陵||能煩野に陵||能裒野墓||[[能褒野王塚古墳|能褒野墓]]
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|'''大和'''||琴弾原に陵||(記載なし)||(記載なし)||白鳥陵
|-
|'''河内'''||旧市邑に陵||志幾に陵<br />(白鳥御陵)||(記載なし)||[[軽里大塚古墳|白鳥陵]]
|-
|'''備考'''||3陵の総称として<br />「白鳥陵」とする|| || ||
* 日本書紀
*: 景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「'''能褒野'''」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の'''琴弾原'''(ことひきはら)、次いで河内の'''旧市邑'''(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
*: [[仁徳天皇]]60年条仁徳天皇60年条<ref group="原">『日本書紀』仁徳天皇60年10月条。</ref>{{Sfn|亀山市史 通史編 第3章第1節}}では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか第3章第1節では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか<ref name="亀山市史 第3章第1節">[http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/kochuusei/honbun/03/01/pdflive.html 「通史編 第3章第1節 ヤマトタケル伝承と鈴鹿地域」][http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html 『亀山市史』](IT市史、亀山市歴史博物館)。</ref>)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている<ref>『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 (2)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 66-67。</ref><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* 古事記
*: 景行天皇記では、倭建命は伊勢の「'''能煩野'''」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の'''志幾'''(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという<ref name="古事記"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* [[延喜式]]([[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立)延喜式(延長5年(927年)成立)*: [[諸陵寮]]([[諸陵式]])諸陵寮(諸陵式)<ref group="原">『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。</ref>では「'''能裒野墓'''」の名称で記載され、[[伊勢国]][[鈴鹿郡]]の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓){{Sfn|」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)<ref>能褒野墓(国史)}}</ref><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。一方で白鳥陵の記載はない。
通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる<ref name="日本書紀"/>(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。
ヤマトタケルの実在性が低いとする論者からは、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとする説を唱えている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。確かな史料の上では、[[持統天皇]]5年([[691年]])。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)<ref group="原">『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。</ref>において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『[[帝紀]]』や『[[旧辞]]』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説があるにおいて有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・[[彦五瀬命]]墓(紀伊)・[[五十瓊敷入彦命]]墓(和泉)・[[菟道稚郎子]]墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある<ref>[[仁藤敦史]] 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。</ref>。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現[[允恭天皇]]陵に治定されている[[津堂城山古墳]]を真陵と見る説が唱えられている。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている<ref>[[宝賀寿男]]「第三章 倭五王らの大王墓」『巨大古墳と古代王統譜』、2005年、150宝賀寿男「第三章 倭五王らの大王墓」『巨大古墳と古代王統譜』、2005年、150-152頁。</ref>。
その後、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])その後、大宝2年(702年)<ref group="原">『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。</ref>には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷<ref>『続日本紀 上 全現代語訳(講談社学術文庫1030)』 講談社、1992年、p. 52。</ref>、別説に地震<ref>[[森浩一]] 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 195-203。</ref>)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。さらに『[[大宝律令|大宝令]]』官員令の別記(付属法令)。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)<ref group="原">『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。</ref>には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、[[8世紀]]初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られているには、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、[[10世紀]]前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
=== 後世の治定 ===
上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。
* 伊勢の能褒野墓
*: 近世には[[白鳥塚古墳 (鈴鹿市)|白鳥塚]](鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年([[1876年]])までには[[教部省]]により白鳥塚に定められたが、[[明治]]12年([[1879年]])に宮内省(現・[[宮内庁]])により3説のいずれでもない現墓の丁子塚([[能褒野王塚古墳]])に改定された近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定められたが、明治12年(1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。詳細は「[[能褒野王塚古墳]]」を参照。。詳細は「能褒野王塚古墳」を参照。*: なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、[[鈴鹿山脈]]の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される<ref name="日本書紀"/><ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている<ref name="亀山市史 第3章第1節"/>。
* 大和の白鳥陵
*: 『[[古事記伝]]』では現陵に関する記述が見える『古事記伝』では現陵に関する記述が見える<ref name="大和白鳥陵"/>。明治9年([[1876年]])に[[教部省]]により考定された{{Sfn|。明治9年(1876年)に教部省により考定された<ref>白鳥陵(国史)}}。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に[[掖上鑵子塚古墳]](奈良県御所市柏原)に比定する説もある{{Sfn|</ref>。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)に比定する説もある<ref>白鳥陵(国史)}}</ref><ref name="大和白鳥陵">「白鳥陵」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。</ref>。「[[白鳥陵]]」も参照。。「白鳥陵」も参照。
* 河内の白鳥陵
*: 明治8年([[1875年]])に教部省により伊岐宮(現・[[白鳥神社 (羽曳野市)|白鳥神社]])の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年([[1880年]])に現陵([[軽里大塚古墳]])に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}</ref>。現陵は、『河内国陵墓図』では[[木梨軽皇子|木梨軽太子]]の「軽之墓」と記されている{{Sfn|<ref>白鳥陵(国史)}}。かつては西方の[[峯ヶ塚古墳]]に比定する説もあったという</ref>。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという<ref>「前の山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』 平凡社。</ref>。「[[白鳥陵]]」および「[[軽里大塚古墳]]」も参照。。「白鳥陵」および「軽里大塚古墳」も参照。*: 白鳥伝説のモデルとも考えられる[[水鳥型埴輪]]が出土したことと築造順から河内・[[古市古墳群]]最初の大王墓である[[津堂城山古墳]]を真陵する説もある。白鳥伝説のモデルとも考えられる水鳥型埴輪が出土したことと築造順から河内・古市古墳群最初の大王墓である津堂城山古墳を真陵する説もある。
== 後裔氏族 ==
[[ファイル:Yamato Takeru no Mikoto by Shigeru Aoki.jpg|サムネイル|[[青木繁]]「日本武尊」1906年]]
『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・[[建部氏|武部君]]([[稲依別王]]後裔)、讚岐綾君([[武卵王]]後裔)、伊予別君([[十城別王]]後裔)ら諸氏族の祖とされる。
『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・[[建部氏|建部君]](稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別{{sub|宮道之別か}}(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別(宮道之別か)(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。
『[[新撰姓氏録]]』では、次の氏族が後裔として記載されている。『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
* 左京皇別 犬上朝臣 - 出自は諡景行皇の子の日本武尊。
* 右京皇別 [[建部氏|建部公]] - 犬上朝臣同祖。日本武尊の後。
* 和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。
なお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの[[名代|名代部]]とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされるなお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの名代部とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる<ref>「建部」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref><ref>「建部」『日本古代氏族事典 新装版』 雄山閣、2015年。</ref><ref name="日本書紀"/>。
== 考証 ==
{{出典の明記|date=2018年4月|section=1}}<sup>''(出典の明記、2018年4月)''</sup>
=== ヤマトタケル説話の構成 ===
[[ファイル:加佐登神社 - 日本武尊像2.jpg|thumb|right|200px|日本武尊の石像<br />(三重県鈴鹿市・加佐登神社)]]
ヤマトタケルの物語は、[[吉井巌]]が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なる。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。

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