=== 山城国の月神 ===
[[桂川 (淀川水系)|桂川]]と合流する[[綴喜郡]]の[[木津川 (京都府)|木津川]]流域には、[[隼人]]との関係が推測される[[月讀神社_(京田辺市)|月讀神社]]や[[水主神社_(城陽市)|樺井月神社]]が、[[保津川]]を通じて[[葛野郡]]に隣接する[[丹波国]][[桑田郡]]には[[小川月神社]]が存在するなど、桂川周辺には月神を奉祀する信仰の遺跡が広範に確認できる。『[[山城国]][[風土記]]』逸文に、その事実を示す「桂里」の地名由来神話がある。「桂里」は『[[和名抄]]』に見えず、当該記事は古風土記のものではなく後世に述作された可能性が高いとされる。[[月]]と[[桂]]を結び付ける観念自体は古代[[中国]]に存在するものであるから、これが「葛」や「楓」をあてていたカツラの地名を「桂」の表記に固定化させていった過程に誕生した神話であると考えられる。そして、上に挙げた幾つかの神社を拠点に、強固な月神信仰の繁栄した結果であり、山背への月読分祀の背景には,単なる葛野の月読神社という1神社の移遷に留まらない、大規模な動きがあったと考えられる桂川と合流する綴喜郡の木津川流域には、隼人との関係が推測される月讀神社や樺井月神社が、保津川を通じて葛野郡に隣接する丹波国桑田郡には小川月神社が存在するなど、桂川周辺には月神を奉祀する信仰の遺跡が広範に確認できる<ref group="私注">松尾大社系の月読神社は秦氏の月読命信仰と関係するのではないだろうか。</ref>。『山城国風土記』逸文に、その事実を示す「桂里」の地名由来神話がある。「桂里」は『和名抄』に見えず、当該記事は古風土記のものではなく後世に述作された可能性が高いとされる。月と桂を結び付ける観念自体は古代中国に存在するものであるから、これが「'''葛'''」や「'''楓'''」をあてていたカツラの地名を「桂」の表記に固定化させていった過程に誕生した神話であると考えられる。そして、上に挙げた幾つかの神社を拠点に、強固な月神信仰の繁栄した結果であり、山背への月読分祀の背景には,単なる葛野の月読神社という1神社の移遷に留まらない、大規模な動きがあったと考えられる<ref name="#1">北條勝貴「松尾大社における市杵嶋姫命の鎮座について」(『国立歴史民俗博物館研究報告』72集、1997年3月)</ref>。
== 歴史 ==
=== 創建 ===
『[[日本書紀]]』『日本書紀』<ref group="原" name="顕宗3">『日本書紀』顕宗天皇3年2月丁巳朔条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。『日本書紀』顕宗天皇3年2月丁巳朔条(神道・神社史料集成)参照)。</ref>によれば、[[顕宗天皇]](第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。朝廷はこの月神に対して山背国([[山城国]])[[葛野郡]]の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという{{Sfn|によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。朝廷はこの月神に対して山背国(山城国)葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという<ref>松尾月読神社(角川)|, 1982}}{{Sfn|</ref><ref>松尾月読神社(平凡社)|, 1979}}</ref>。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている{{Sfn|<ref>葛野坐月読神社(式内社)|, 1979}}。この月神は、通説では元々[[壱岐国]]の[[式内社]]である[[月読神社]]から分祠されたものであるとされる</ref>。この月神は、通説では元々壱岐国の式内社である月読神社から分祠されたものであるとされる<ref name="#1"/>。その後『[[日本文徳天皇実録]]』。その後『日本文徳天皇実録』<ref group="原" name="斉衡3">『日本文徳天皇実録』斉衡3年(856年)3月戊午(15日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。『日本文徳天皇実録』斉衡3年(856年)3月戊午(15日)条((神道・神社史料集成)参照)。</ref>によれば、[[斉衡]]3年([[856年]])に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる{{Sfn|によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる<ref>松尾月読神社(平凡社)|, 1979}}</ref><ref group="注">松尾への遷座については、『日本文徳天皇実録』では斉衡3年(856年)とするほか、『月読大神宮伝記』では仁寿3年(853年)、『松尾七社略記』所引「社家相伝之説」では大宝元年(701年)とする。これらのうち正史の斉衡3年(856年)が最も有力視される {{Harv|葛野坐月読神社(式内社)|1979}}。松尾への遷座については、『日本文徳天皇実録』では斉衡3年(856年)とするほか、『月読大神宮伝記』では仁寿3年(853年)、『松尾七社略記』所引「社家相伝之説」では大宝元年(701年)とする。これらのうち正史の斉衡3年(856年)が最も有力視される(葛野坐月読神社(式内社), 1979)。</ref>。このほか『山城国風土記』逸文によれば、月読尊が[[保食神]]のもとを訪れた際、その地にあった[[桂]]の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている{{Sfn|<ref>上田正昭|, 1997}}</ref>。
[[File:Iki Tukiyomi shrine.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[月讀神社 (壱岐市)|月讀神社]]([[長崎県]][[壱岐市]])}}{{Small|[[壱岐島]]にある元社「月読神社」の[[論社]]。}}]]前述のように顕宗天皇3年の記事は壱岐氏の伝承と考えられており、本拠地の[[壱岐島]]にある月読神社前述のように顕宗天皇3年の記事は壱岐氏の伝承と考えられており、本拠地の壱岐島にある月読神社<ref group="注">壱岐の月読神社は、『延喜式』神名帳において壱岐島壱岐郡に名神大社として記載される神社で、[[箱崎八幡神社_(壱岐市)|箱崎八幡神社]]または[[月讀神社 (壱岐市)|月讀神社]](ともに長崎県壱岐市)がその論社とされる。壱岐の月読神社は、『延喜式』神名帳において壱岐島壱岐郡に名神大社として記載される神社で、箱崎八幡神社または月讀神社(ともに長崎県壱岐市)がその論社とされる。</ref>からの[[勧請]](分祠)を伝えるものとされる{{Sfn|からの勧請(分祠)を伝えるものとされる<ref>葛野坐月読神社(式内社)|, 1979}}</ref>。山城への勧請には、中央政権と朝鮮半島との関係において対馬・壱岐の重要視が背景にあるとされる{{Sfn|<ref>葛野坐月読神社(神々)|, 1986}}。壱岐・対馬の氏族が[[卜部氏|卜部]]として中央の祭祀に携わるようになった時期を併せ考えると、月読神社の実際の創建は6世紀中頃から後半と推測されている{{Sfn|</ref>。壱岐・対馬の氏族が卜部として中央の祭祀に携わるようになった時期を併せ考えると、月読神社の実際の創建は6世紀中頃から後半と推測されている<ref>葛野坐月読神社(神々)|, 1986}}</ref>。
当初の鎮座地「歌荒樔田」の比定地について、社伝(月読大神宮伝記)では上野説(月読塚が存在した地)・桂里説を挙げるが、他に宇太村説(のちの平安京造営地)・有栖川流域説などの諸説が知られる{{Sfn|葛野坐月読神社(式内社)|1979}}。『文徳天皇実録』の記述により川辺にあったことが確かとされることから、中でも上野説が有力視されている{{Sfn|葛野坐月読神社(式内社)|1979}}{{Sfn|葛野坐月読神社(神々)|1986|p=165}}。
聖徳太子が諸国を巡った際に、山城国の「楓野村(=現在の葛野)」の「蜂丘」の南に宮を建て、その宮を秦河勝が一族を率い敬うことを怠らなかった、とあり弓月君の子孫と言われる秦氏の男性形の月神信仰と、楓を月神とみなす信仰は関連していると管理人は思う<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D 秦河勝](最終閲覧日:22-10-03)</ref>。
=== 概史 ===
== 注釈 ==
<references group="注"/>
== 私的注釈 ==
<references group="私注"/>
== 参照 ==