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== 序列殺人の形式の民話・伝承 ==
=== 「鳥と芋」型 ===
* [http://bellis.sakura.ne.jp/k/tegalog.cgi?postid=223 おとっとこよし]:日本:長野県
 
=== 「鳥と植物神(排泄神)」型 ===
* [http://bellis.sakura.ne.jp/k/tegalog.cgi?postid=231 鳥のみじじい]:日本:長野県
** 男性の一方は死なないが、頭を割られる。
** 「[[こぶとりじいさん]]」的な物語でもある。
 
== 参照・オーストロネシア語族とは ==
オーストロネシア祖族は東アジアのモンゴロイドで、約6000年前に中国南部、現在の福建省付近から'''台湾'''へ渡ったとされる<ref>Kun, Ho Chuan (2006). "On the Origins of Taiwan Austronesians". In K. R. Howe. Vaka Moana: Voyages of the Ancestors (3rd ed.). Honolulu: University of Hawai'i Press. pp. 92–93</ref>。
 
この時に一部のグループは黒潮や対馬海流に乗って日本列島にも渡っており、特に沖縄県、鹿児島県、宮崎県や和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などに彼らの末裔が多いと言われている<ref>『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)</ref>(隼人や南島系海人族)。HLAハプロタイプはB54-DR4がこの流れを示している<ref>徳永勝士 (1995)「HLA遺伝子群からみた日本人のなりたち」『モンゴロイドの地球(3)日本人のなりたち』東京大学出版会,第4章,遺伝子からみた日本人,p193-210</ref>。ちなみに日本語は文法がアルタイ諸語のものであるが、音韻体系はポリネシア語の属するオーストロネシア語族と共通している部分がある。
 
いっぽうで台湾からは5000年前以降に一部がフィリピンやインドネシア方面へ拡散し<ref>ピーター・ベルウッド (1989)「太平洋 ―東南アジアとオセアニアの人類史―」植木武・服部研二 訳 東京:法政大学出版局</ref><ref>ピーター・ベルウッド(2008)『農耕起源の人類史』長田俊樹・佐藤洋一郎 訳 地球研ライブラリー no. 6 京都:京都大学学術出版会</ref>、紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島、ボルネオ島に到達した。
 
ボルネオ島のマレー人の一部はスンダ海峡を横断し、遠くマダガスカルへ達した。彼らは直接マダガスカル島まで航海した可能性が強く、この2つの島の間は4,500海里(8,300km)も離れているが、常に貿易風が追い風となる航海であるため、当時の東南アジア島嶼部の海民の技術レベルならば充分に現実的な航海である。
 
スラウェシ島のグループはここからニューギニア島海岸部、メラネシアと東進し、その間にオーストラロイドの先住民(パプア人、メラネシア人)と混血し、ポリネシア人、ミクロネシア人の始祖となる。彼らは紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。
 
現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。
 
サモアに到達した時点 でポリネシア人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、紀元1世紀頃から再び移動を開始し、ポリネシア人たちはエリス諸島やマルキーズ諸島、ソシエテ諸島にまず移住した。その後、ソシエテ諸島を中心に300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島やニュージーランドに到達した。
 
=== 生活・文化 ===
オーストロネシア系諸族は概ね農耕生活を営んでおり、太平洋諸島では'''タロイモ'''、'''ヤムイモ'''などの焼畑農業が行われる。漁労も行い、家畜は'''ブタ'''が中心でありニワトリも飼う。東南アジアのオーストロネシア系諸族は稲作もおこなうが、これは基層住民として分布していたオーストロアジア系諸族の生活体系を引き継いだものである。
 
ミクロネシア人は母系制社会、ポリネシア人は父系性社会である。メラネシアは比較的平等な社会である。
 
=== サトイモについて ===
サトイモはタロイモの仲間で、原産地はインドや中国<ref>丸山亮平編, 2017, p104</ref>、またはマレー半島<ref>猪股慶子監修 成美堂出版編集部編, 2012, p108</ref>などの熱帯アジアと言われているが<ref>藤田智監修 NHK出版編, 2019, p112</ref>、インド東部からインドシナ半島にかけてとの説が有力視されている<ref>講談社編, 2013, p189</ref>。少なくとも、紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたとみられている<ref>講談社編, 2013, p189</ref>。
 
日本への伝播ははっきりしていないが、イネの渡来よりも早い縄文中期~縄文時代後期(約4,000~3,000年前)と考えられている<ref>講談社編, 2013, p189</ref><ref>小西達夫:[http://www.yasaitobunka.or.jp/kenkyuu_kouenkai/20111212_satoimo_report01.html 世界のタロイモ -種の多様性と利用について-] 有名野菜品種特性研究会 「有名野菜品種特性研究会(サトイモ)」報告</ref>。なお、鳥栖自生芋(佐賀県鳥栖市)のほかに、藪芋、ドンガラ、弘法芋(長野県青木村)と呼ばれる'''野生化したサトイモ'''が、本州各地にあることが報告されている<ref>「[http://portal.dl.saga-u.ac.jp/handle/123456789/13543 佐賀県鳥栖市に自生しているサトイモについて]」『佐賀大学農学部彙報』佐賀大学農学部 Vol.71 pp.113 -122</ref>。このうち、青木村の弘法芋群生地は県指定天然記念物となっている<ref>平安時代初期の仏教僧侶・空海(弘法大師)にちなむ伝説から、弘法芋と呼ばれる。別名「石芋」。[http://www.vill.aoki.nagano.jp/assoc/see/ishiimo/ishiimo.html 県指定天然記念物 沓掛の野生里芋] 青木村ホームページ(2018年12月7日閲覧)</ref>。伝播経路は不明であるが、黒潮の流れに沿って北上したと考える研究者がいる<ref>橋本征治「[https://hdl.handle.net/10112/3088 台湾蘭嶼におけるタロイモ栽培]」『関西大学東西学術研究所紀要』第40輯, 2007年4月1日, pp.55-77</ref>。
 
[[昭和]]30年代ごろまでは、[[高知県]]や[[熊本県]]([[五家庄|五家荘]])などでは山間地での[[焼畑農業|焼き畑]][[輪作]]農業により栽培されていた<ref>横川末吉「[https://doi.org/10.4200/jjhg1948.7.41 高知縣の燒畑耕作]」『人文地理』1955年 7巻 1号 pp.41-48, {{doi|10.4200/jjhg1948.7.41}}</ref><ref>上野福男「[https://doi.org/10.4157/grj.14.93 五家荘の燒畑耕作]」『地理学評論』1938年 14巻 2号 pp.93-120, {{doi|10.4157/grj.14.93}}</ref>。
 
日本の食文化とサトイモの関わりは関係が深く、古い時代から月見の宴などの儀礼食に欠かさない食材で使われており、サトイモを餅の代用にした「餅なし正月」の習俗も日本各地で見られた<ref>講談社編, 2013, p189</ref>。戦国時代には野戦携行食として、茎葉の皮を剥いて乾燥させた保存食「干し ずいき」「芋がら」が重宝された。
== 関連項目 ==
* [[こぶとりじいさん]]* [[ハイヌウェレ型神話]] == 参照 ==
{{DEFAULTSORT:しよれつさつしん}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:中国神話]]

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