一方「おかねの恩返し」も、それ以外の八丁島天満宮の伝承もそうだが、「十歳の男の子」がまるで指定されたかのように、最後に人身御供として要求される。その理由も定かではなく、いかにもその部分だけがあとから「とってつけた」ように思える。「おかねの恩返し」は朝鮮の龍女や、他の地域の[[メリュジーヌ]]譚と同様、元は特定の氏族の「祖神譚」だったと思われるが、最後に家族が全員死んでしまったことで、「祖神譚」から外されて「人身御供」の根拠へと'''話が振り返られてしまった'''話と考える。
先祖に該当する者が赤ん坊のうちに死んでしまったら、理論的には子孫はいないはずなので、これは特定の氏族の「'''意図的な先祖隠し'''」も兼ねたもの、といえる。祖神神話を書き換えて、別のところに先祖を求めることにしたのだろう。そして、更に「人身御供」を正当化する方向へも話を変えることにしたと思われる。ただ、特に王権などの身分や地位や物質的な財産の継承の根拠は「血筋」に求められることが古代においてもほとんどだったと思うので、軽率に先祖を書き換えてしまったら、先祖の権威によって得られたはずのものも得られなくなる、ということにもなりかねない。そのため、神話を書き換えたのは、書き換えても支障がないくらいに権力を有していたものが、なにがしかの目的をもって、敢えて書き換えた、のだとも言えるのではないかと思う。高良大社には、本来高良山に高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座いたところ、高良玉垂命がのっとってしまったという伝承があり、重要な神社の祭神が変えられてしまった出来事と、祖神神話の書き換えには関連性があるのではないか、と推察する。」も兼ねたもの、といえる。祖神神話を書き換えて、別のところに先祖を求めることにしたのだろう。そして、更に「人身御供」を正当化する方向へも話を変えることにしたと思われる。ただ、特に王権などの身分や地位や物質的な財産の継承の根拠は「血筋」に求められることが古代においてもほとんどだったと思うので、軽率に先祖を書き換えてしまったら、先祖の権威によって得られたはずのものも得られなくなる、ということにもなりかねない。そのため、神話を書き換えたのは、書き換えても支障がないくらいに権力を有していたものが、なにがしかの目的をもって、敢えて書き換えた、のだとも言えるのではないかと思う。高良大社には、本来高良山に高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座いたところ、高良玉垂命がのっとってしまったという伝承があり、重要な神社の祭神が変えられてしまった出来事と、祖神神話の書き換えには関連性があるのではないか、と推察する<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%89%AF%E5%A4%A7%E7%A4%BE 高良大社](最終閲覧日:25-02-13)</ref>。 === 菊姫物語 ===主人公の娘とその家族全員が「非業の死」を遂げて「そして誰もいなくなった」という状態になるのは「おかねの恩返し」と同じである。「おかねの恩返し」では、龍女自身は池の中に帰るだけで「死んだ」とはされていないが、菊姫物語では姫自身が自殺してしまう。その首をわざわざ切り落として完全に「死んだ」ことにしてしまっている点は、古代よりも時代が下った中世~戦国の説話の方が、話の内容が人道的になるどころか、陰惨さを増している。姫の夫は入水自殺しないが、かわりに家来の掃部介が入水している。「掃部」という言葉は「清掃する人」という意味もあると思うが、こちらがいわば「清い人」であって、無体に攻めてくる「秋月家」と「島津家」が「汚い人」という意味も暗にあるのではないか、と思う。菊姫は家を救うために自ら自害したので、この世にあまり未練はなさそうに見えるが、ともかく「'''非業の死を遂げたら怨霊'''」という中世らしい発想で祟り神になってしまう。彼女が何故「十歳の男の子」を人身御供に求めるのかも謎のままである。 秋月氏は実際に久留米にいた武家である。北九州には古賀という名前もみられ、何らかの歴史的事件を投影してもいる伝承かもしれないが、詳しくは不明である。 === 殿様と忠臣 ===こちらは前の2つとは違って、男女の一対を人身御供に求めた話。一口に「忠臣」といっても色々と種類があるのだが、「菊姫物語」の掃部介が主君に殉じた「忠臣」であるのとは対照的に、こちらは諫言が聞き入れられなくて逆に暴君に殺されてしまうタイプの「忠臣」である。殺された家来は、本来は「良い人」だったはずなのだが「'''非業の死を遂げたら怨霊'''」のパターンの通り、死ぬと祟り神になる。これは大国主命の神話とも関連がある。記紀神話の段階では、黄泉の国を訪問した大国主命は妻の須勢理姫を得て地上に帰還するが、疫神である[[須佐之男命]]の生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り受け、[[須佐之男命]]の代理人として地上に君臨する。この段階では大国主命が祟り神になって暴れる、とまではされていない。 しかし、これが「大物主命」という名になると、崇神天皇の時代に天変地異や疫病の流行を起こしたとされ、[[大田田根子]]に自分を祀らせるように、と求める祟り神となる。結局大国主命は黄泉の国に行ったら、[[須佐之男命]]のような疫神になってしまっていることが分かる。この傾向は群馬県高崎市倉賀野町にある倉賀野神社の由緒譚である[[那波八郎]]で顕著である。[[那波八郎]]は生前は「良い人」だったが、兄たちに殺され、埋められて祟り神としての蛇神となって年に1回人身御供を求めるようになった。話の骨格は「殿様と忠臣」と同じである。また兄たちに妬まれて殺されていること、倉賀野神社の祭神が[[大国魂神]]であることから、[[那波八郎]]とは大国主命が変化したものであることが分かる。中世になって記紀神話を解読できるものがわずかになった結果、伝承だけが民間で一人歩きし、全国的に一致する形で独特の「祟り神神話」として確立したものと考える。群馬県ではそれが[[那波八郎]]になり、福岡県では「殿様と忠臣」になっている。だから、この場合の「忠臣」の起源の一つは大国主命といえる。 '''成人男性'''を人身御供に求める話にいわゆる「[[キジも鳴かずば]]」がある。これも「水」に関する話だが、全体的に見れば「自己犠牲」の話であって、人身御供になるものは自らが生贄の「くじ」に当たるよう仕向けて亡くなる。いわゆる「'''自己犠牲'''」である。 「殿様と忠臣」では、殿様の気性を考えれば諫言を行うことは自らの身を危うくする行為でもあり、敢えてそれをすることは「自己犠牲」とまでははっきりとは明確に表現されていないが「自己犠牲」に近いものはある。殿様はまるで'''ヘロデ王'''のような暴君で、気にいらないものはなんでも殺してしまう。 また、「[[キジも鳴かずば]]」には管理人が知る限り、1例だけ「泥棒の罪」で殺されたものがいる。「自己犠牲」の精神があって、かつ「泥棒の罪」で殺された者といえば、管理人は「'''イエス・キリスト'''」という言葉しか思い浮かばない。古代のカトリックによれば「父と息子と精霊」は「同じもの」とされていたように思うのだが、「死して蘇った大国主命」は彼の先祖の[[須佐之男命]]も同然である。すなわち「父と息子」は同じもの、として現されているし、大国主命の地上への復活は結婚と勝利を伴っており、どういうわけか「黙示録」というものと話の骨格が一致するように感じられる。 ともかく、大国主命の「死と復活」は、「大国主命の死」と「大国主命・[[須佐之男命]]が一体化した復活」と組み合わされており、復活した大国主命であるところの大物主命は[[須佐之男命]]も同然の「祟り神」とされている。これが中世になって民間伝承化すると「'''良い人が非業の死を遂げて祟り神になる'''」という話に縮められてしまい、老若男女を問わず「誰でも死んだら祟り神」化する傾向になってくる。元の話が「イエス・キリストの復活と再生」だったとしても、伝承は何だか一見して聖書の内容とは似ていない感じになってくる。 なぜ、大国主命がイエスを投影したものだとして、死んで再生したら[[須佐之男命]]になってしまうのかというと、その原因はローマ神話にあるように思う。ローマの重要な「父なる神」とは[[サートゥルヌス]]のことであって、この神は農耕神でもあり時間の神ともされているが、植物が育って枯死し実(赤ん坊)をつけて、それがまた発芽し成長する、というサイクルを繰り返すのになぞらえて、1年のうちに「発生(出生)、成長、老化、若返り(種)」を繰り返す神と考えられていたのではないかと思う。植物の「種」は正確には動物でいえば親の植物の「子供」に相当し、親の植物がそのまま若返るのではないのだが、古代の人にはそれが分からず、同じ植物が「死と再生」を繰り返しているように思えたのだろう。[[サートゥルヌス]]が農耕神であり、植物神でもあるなら彼もまた植物のように「死と再生」を繰り返す神と考えられたのだろう。そしてそのために生贄が必要と考えられたのではないだろうか。そして[[サートゥルヌス]]が「万物の父」であるならば、年末に動物とはいえ、生贄を捧げられて「老い」から若返る[[サートゥルヌス]]は、動物という「我が子」を食らって若返る神でもあったといえる。その性質は天界では嫌われて[[サートゥルヌス]]は地上に追放されたが、地上ではその性質なくして農耕の豊穣は得られない、と考えられたのだろう。 この[[サートゥルヌス]]には「既存の秩序を破壊する」という性質があり、彼の像は1年の大部分は鎖でつながれたままだった。年末の[[サートゥルナーリア]]の間だけその像は解き放たれ「時間と共に年をとる」という秩序を破壊して若返る、とされたのだろう。ということは通常の[[サートゥルヌス]]は、好き勝手にさせておくと「秩序を破壊する祟り神」でもあった。だから、彼が暴れないように工夫をこらす必要があったし、その破壊性がローマの強さの秘訣と考えられたのかもしれない。古代ローマは農耕で成り立っていた国家ではなく、食料の生産などは植民地に頼るところが多かった。[[サートゥルヌス]]はローマ法の神でもあり、ローマの植民地政策は「君臨すれども統治せず」という建前はあったが、当然ローマの意向に沿った者が統治を行っただろうし、植民地の慣習法よりもローマ法の優先を主張されて植民地の住民が不利に扱われることもあっただろう。[[サートゥルヌス]]は'''植民地の法や身分秩序を破壊し、ローマ法を優位に立たせる神'''でもあったことと思う。古代ローマにとって「農耕の豊穣の神」とは「植民地を優位に支配して、その上がりをローマに独占させる神」でもあったし、そのために植民地の元からの秩序を破壊する神でもあったと考える。[[サートゥルヌス]]が「我が子」として可愛がったのは'''ローマ市民だけ'''であり、それ以外の人々は神話の神々のごとく「'''食い散らかして自ら利用するだけの我が子'''」だったのではないだろうか。イエスはローマ人ではないので、当然ローマ人の感覚からいえば、[[サートゥルヌス]]の餌になるだけの「'''子'''」なのである。 だから、キリスト教の到来時に「父と子は同じもの」と言ったら、ローマ人にとっては「破壊神の[[サートゥルヌス]]と子(イエス)である餌は同じもの」だと、そのような解釈がされたのだろう。イエスは[[サートゥルヌス]]の餌となって、[[サートゥルヌス]]と一体化する。だから、もしイエスが再臨して生き返ることがあれば、それは[[サートゥルヌス]]が若返って出現したのと同じことなのだ。[[サートゥルヌス]]はイエスを食べて若返るはずなのだから、神は餌を食べて'''餌の姿'''で人々の前に現れるのだ。 ローマにおける初期のキリスト教は下層階級に拡がり、暴力的で敵対者とみなすものに対し、非常に攻撃的だった。それはキリストが[[サートゥルヌス]]であったとみなされたので、その「秩序を破壊する能力」で既存の権力を破壊し、貧しい人々が貧困から抜けだそう、という思想だったのではないだろうか。現代的には良く言えば「革命」、悪く言えば「テロリズム」である。 そもそもキリスト教が発生した古代ユダヤ社会にも、一神教の神を[[サートゥルヌス]]のような破壊性の高い神と考えて、その暴力的な能力でローマからの支配を逃れようと考える人々がいたのではないか。イエスの弟子達の中にも「熱心党」と言われる過激な人々がいた。パウロもキリスト教に改宗するまでは、暴力的な弾圧を厭わない人物だった。彼らには共通して「暴力で世界を変えよう」という思いがあり、彼らの「神」はそのような神で、宗教的な思想と政治的な思想が、表裏一体のものとして存在していたのだろう。イエスが「弟子に裏切られた」とは良く聞く話だが、そのように敵対者とみなした者を犯罪者に仕立てあげたり、親しくするふりをして死に追いやることも「破壊神の性質」として肯定されていたのではないだろうか。 だから、この暴力的な思想を持った人々が、自らを「熱心党」と呼ぼうが「キリスト教徒」と呼ぼうが「パリサイ人」と呼ぼうが、ともかく「ユダヤの神はローマの[[サートゥルヌス]]と同様のもの」と考えていさえすれば、その名称や呼称はどうでも良かった、ともいえる。そう考える人達がある程度いたために、結局ユダヤ・ローマ戦争が起き、エルサレム陥落とユダヤ人のエルサレム追放が起きてしまうのである。 一方、キリスト教の方は、イエスの死後ユダヤ世界を放れ、各地に布教を繰り返すようになる。ローマでは初期には下級階層に広まるが、結局貴族階級にも浸透していく。秩序を無視して、暴力で権力や財力を得ることを肯定してくれる神ならば、貴族階級にとってもありがたい神である。頂点には一人しか立てないのであれば、目上の者に対する不満はほとんどの貴族達の内心にもあって当然であり、神はその不満を暴力で解決して構わない、と言ってくれるのだから。そして、頂点に立つ者にとっては、神は外国や部下達との約束を破ってもかまわない神、となる。それを押し通すために暴力も肯定されるのであれば、強力な軍隊を持つ権力者にとって、これほどありがたい神はあるまい。かくして、キリスト教はローマの上流階級から「都合の良い宗教」という認定を受け、国教にまで上り詰める。教会の上層部も貴族の子弟がつくようになり、庶民には「イエスに倣え。そうすれば神の国へ行ける。(神と一体化できる。)」と言うようになる。「イエスに倣え」とは、要は「[[サートゥルヌス]]の餌用の'''子'''になって、[[サートゥルヌス]]と一体化しろ。」ということなのではないだろうか。そうしたら「神の法」の元で良い思いをしている上流階級の人々だけは「神に可愛がられている子」として君臨できるからである。 八丁島天満宮の伝承にはないが、日本の伝承には「旅人」を人身御供や人柱にする話は良く出てくる。この「旅人」とは「よそ者」のことを指すと考える。ローマ人にとって、ユダヤ人であるイエスは「よそ者」である。自らの「父なる神」である[[サートゥルヌス]]に食べさせるには格好の餌なのではないだろうか。共同体の問題である堤防工事や神を慰撫する祭祀に「よそ者」を利用して用いろ、というのが「原始ローマ教」の教えだったのではないかと推察される。 また、八丁島天満宮の伝承には、理由も定かでないが、幼い子供を人身御供に求めるものがある。諏訪大社の御頭祭では若い少年が「神使」に選ばれる。 === まとめ ===どのようないきさつで3つの人身御供の話が、一つに纏められた祭祀になったのかは不明だが、興味深くはある。北九州は朝鮮半島に近いので、朝鮮のものと類似した民間伝承が見られる傾向があると感じる。
== 参考文献 ==
* [https://miyacyu35.wordpress.com/2017/03/09/%e5%85%ab%e4%b8%81%e5%b3%b6%e3%81%ae%e5%a4%a7%e8%9b%87%e4%bc%9d%e8%aa%ac%ef%bd%b0%e8%8f%8a%e5%a7%ab%e7%89%a9%e8%aa%9e/ 八丁島の大蛇伝説ー菊姫物語]、宮の陣中学校S35卒同窓生の広場(最終閲覧日:25-02-11)
* [https://miyacyu35.wordpress.com/2017/03/10/12045/ 八丁島の大蛇伝説ーカンシャク持ち殿さん]、宮の陣中学校S35卒同窓生の広場(最終閲覧日:25-02-08)
== 関連項目 ==
* [[那波八郎]]:「殿様と忠臣」の類話である。
== 脚注他 ==