この[[サートゥルヌス]]には「既存の秩序を破壊する」という性質があり、彼の像は1年の大部分は鎖でつながれたままだった。年末の[[サートゥルナーリア]]の間だけその像は解き放たれ「時間と共に年をとる」という秩序を破壊して若返る、とされたのだろう。ということは通常の[[サートゥルヌス]]は、好き勝手にさせておくと「秩序を破壊する祟り神」でもあった。だから、彼が暴れないように工夫をこらす必要があったし、その破壊性がローマの強さの秘訣と考えられたのかもしれない。古代ローマは農耕で成り立っていた国家ではなく、食料の生産などは植民地に頼るところが多かった。[[サートゥルヌス]]はローマ法の神でもあり、ローマの植民地政策は「君臨すれども統治せず」という建前はあったが、当然ローマの意向に沿った者が統治を行っただろうし、植民地の慣習法よりもローマ法の優先を主張されて植民地の住民が不利に扱われることもあっただろう。[[サートゥルヌス]]は'''植民地の法や身分秩序を破壊し、ローマ法を優位に立たせる神'''でもあったことと思う。古代ローマにとって「農耕の豊穣の神」とは「植民地を優位に支配して、その上がりをローマに独占させる神」でもあったし、そのために植民地の元からの秩序を破壊する神でもあったと考える。[[サートゥルヌス]]が「我が子」として可愛がったのは'''ローマ市民だけ'''であり、それ以外の人々は神話の神々のごとく「'''食い散らかして自ら利用するだけの我が子'''」だったのではないだろうか。イエスはローマ人ではないので、当然ローマ人の感覚からいえば、[[サートゥルヌス]]の餌になるだけの「'''子'''」なのである。
だから、キリスト教の到来時に「父と子は同じもの」と言ったら、ローマ人にとっては「破壊神の[[サートゥルヌス]]と子(イエス)である餌は同じもの」だと、そのような解釈がされたのだろう。イエスは[[サートゥルヌス]]の餌となって、[[サートゥルヌス]]と一体化する。だから、もしイエスが再臨して生き返ることがあれば、それは[[サートゥルヌス]]が若返って出現したのと同じことなのだ。[[サートゥルヌス]]はイエスを食べて若返るはずなのだから、神は餌を食べて'''餌の姿'''で人々の前に現れるのだ。
だから、キリスト教の到来時に「父と子は同じもの」と言ってしまったら、ローマ人にとっては「破壊神のサートゥルヌスと子(イエス)は同じもの」だと、そのような解釈がされたのだろう。ローマにおける初期のキリスト教は下層階級に拡がり、暴力的で敵対者とみなすものに対し、非常に攻撃的だった。それはキリストが[[サートゥルヌス]]であったとみなされたので、その「秩序を破壊する能力」で既存の権力を破壊し、貧しい人々が貧困から抜けだそう、という思想だったのではないだろうか。現代的には良く言えば「革命」、悪く言えば「テロリズム」である。
== 参考文献 ==