== 橋に関する話 ==
日本三大奇橋と呼ばれる橋にまつわる伝承を挙げる。
=== 錦帯橋の人柱 ===
山口県岩国市にある橋。
周防の国(山口県の東部)岩国に、錦川という大きな川が流れている。この錦川にかけられた錦帯橋は、日本三大奇橋(めずらしい橋)のひとつに数えられている。
今からおよそ三百五十年前、岩国の初代殿さまとなった吉川広家(きっかわひろいえ)は自分の住んでいる横川と、城下町の錦見(にしきみ)を結ぶ橋をかけたいと思っていた。しかし、錦川は、幅が二百メートルもあり、いったん雨が降り続くと、濁流(だくりゅう)がうずをまき、かける橋かける橋がつぎつぎと流されてしまうので、なかなかよい橋ができなかった。
橋は、延宝元年(えんぽうがんねん、1673)九月三十日にできあがった。が、あくる年の五月、梅雨の長雨で錦川は大洪水となり、橋はくずれ、流れ落ちてしまった。そのため、だれともなく、
「もう、こうなったら人柱をたてて、水の神様のおいかりをしずめるほかにてだてはない。」
という声がでてきた。すると、そのとき後ろの方で、
「ここにいる人の中で、横つぎのあたっているはかまをはいている者を、人柱にしたらどうだろう。」
という声がした。
「そうだ。それはいい考えだ。横つぎのあたっているはかまをはいている者をさがそう。」
と決まってしまい、さっそくはかまを調べはじめた。ところが、横つぎのあたっているはかまをはいている者はたったひとり、それを言い出した男だった。男は、日ごろから信仰心があつく、自分が多くの人の役にたつのなら、いつ命をなげだしてもいいと、人柱になる決心をしたのだった。男にはたいそう親思いの娘が'''二人'''いた。二人の娘は、父親が人柱になることを知り、このうえもなく悲しんだ。娘たちは、
「お父様のかわりに、私たちにやらせてください。」
と、涙ながらに父親をときふせた。そして、二人の娘は、父親の身代わりに、人柱となって橋台の下に埋められた。
その後、錦帯橋の下の石の裏側に、小さな「'''石人形'''」がついているのが見られるようになった。石人形は、小さな小石が集まってできており、大きくても2センチメートルぐらいの、かわいいものである。これを見つけた人々は、
「これは、あの人柱になってくれた娘たちが、石人形に姿を変えたのだ。」
と信じるようになった。水ぬるも春のころ、橋の下を流れる水ぎわで小石を裏返してみると、石人形が見つかることがある。人々は、これをそっとはがし持ち帰り、親孝行な二人の娘をしのび、子供たちに語り伝えたという<ref>[http://www14.plala.or.jp/hotokuenhp/yamaguchidensetu/sizen/kintaikyo.html 錦帯橋の人柱]、青木靖男水彩画廊(最終閲覧日:24-12-23)</ref>。
=== 愛本橋 ===
富山市黒部市宇奈月町下立地区にある橋。
==== お光伝説 ====
古くから黒部川は暴れ川として有名で、黒部川が氾濫するのは川の底に住む大蛇が怒って大暴れしたからだと考えられていた。
昔、黒部川中流に架かる愛本橋のわきに一軒の茶店があった。その茶店には年頃の娘、'''お光'''(みつ)がおって、彼女が目当てでお店に入り浸る男性客も多かった。ある日の晩、お光は黒部川で一人の青年と出会った。二人は毎晩会って色んな話をする仲になり、お光は次第にその青年に惹かれていった。しかしその青年こそ、黒部川に住む大蛇の化身だった。お光はショックを受けたけど、水の守神である大蛇に自分の身を捧げることで、村人を水害から守れるのならば、と大蛇へ嫁ぐ覚悟を決め、両親には内緒で姿を消してしまった。その後、一度里帰りしたが、大蛇の姿で蛇の子どもを生んだところを見られてしまい、二度と戻らなかった。
==== 愛本姫社 ====
愛本姫社は愛本橋の近くにあるお宮で、かつては「'''大蛇の宮'''」と呼ばれていた。ご神体は江戸時代後期に活躍した浮世絵師・池田(渓斎)英泉の花魁(おいらん)の版画が祀られているとのこと。この浮世絵は、当時日本文化が大流行したフランスで発売されていた、挿絵雑誌の表紙を飾り、それを見たゴッホが模写したことで世界的に有名になったそうである。 お光がいなくなって両親が悲しんでいるとき、茶店で休憩していた旅の画家(池田英泉)が二人に同情して、描いていったお光の絵が大切に保管されてご神体になったと伝えられいるそうだ<ref>[http://www.kurobehan.com/midokoro/24pt/ 知ってビックリ!黒部川の大蛇伝説と愛本姫社]、くろべにきてね! 黒部藩(最終閲覧日:24-12-23)</ref><ref>[https://japanmystery.com/toyama/aimoto.html 愛本姫社]、日本伝承大監(最終閲覧日:24-12-23)</ref>。
=== 猿橋 ===
山梨県大月市猿橋町にある橋。
伝説によれば、奈良時代、百済の人である志羅呼(しらこ)という匠がこの地にやって来た。桂川の谷が深く、橋がつくれないので難儀していた地元の人や旅人の頼みを聞いて、志羅呼は橋を架けるためにこの地にとどまることとなった。しかし、名案もなく、困っていたところへ、渓谷を行き交う野猿が両岸から手をさしのべて、橋を造り、対岸に往来する谷渡りをしているのをみて、両岸からはね材木をせり出して橋をかけることを思いついたと言われている。しかし、実際の工事は困難を極めたため、志羅呼は夫婦で命を捧げ、人柱となって、橋を完成させたということだ<ref>[https://www.mmdb.net/usr/digiken/saruhashi/page/A0001.html 日本三大奇橋 猿橋]、NPO 法人地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブ(最終閲覧日:24-12-23)</ref>。
=== 愛本橋 ===
富山市黒部市宇奈月町下立地区にある橋。
== 私的解説 ==
物語の最後に登場する雉は女主人公のトーテムといえる。雉が死ぬと同時に女主人公も姿を消す。
女主人公はかつて女神であったもので、その神話が崩れて民間伝承化したものと考える。人柱にされた「父親」とは本来女神に対する=== 長野市信州新町の女神 ===「雉も鳴かずば」やその類話は、全体において、「'''父と娘'''」の伝承という感が強いのだけれども、信州新町の話と、松浦市・大阪市との話で大きく異なる点は、「'''娘の性質'''」であると考える。信州新町の話では「娘の失言」によって父親は死に至る。要は'''娘が父親を死に追いやっている'''。松浦市・大阪市の話では失言は「父親自身の失言」であって、「'''自己犠牲'''」というおおよそ太古からの伝承にはあまりそぐわないようなここ2000年くらいの新しい概念が目立つように思う。父親は自分で勝手に死を選ぶ。これが錦帯橋の話になると、もはや雉は登場せず、娘二人の「'''自己犠牲'''」という話になる。時代が新しくなるほど、'''女性が犠牲になる話になる'''、という点は、管理人としてはやや遺憾に感じる。(別に男性が犠牲の方がいい、とは言わないけれども。) ただ、錦帯橋の伝承の良いところは「'''娘が二人いる'''」という点だと考える。娘は本来二人いたと思われるからである。この系統の伝承で、起源的に近いものは記紀神話の中の、[[人身御供天若日子]]であったものと思われる。女神は「川の神」かあるいは「建築工事」に関する職能神であった可能性がある。記紀神話では雉はの話と思われる。[[天照大御神天若日子]]か、あるいはの死に関して、二人の女神が登場する。一人は不吉な言葉を吐いて、[[天若日子]]の死の原因になる[[天佐具売]]である。もう一人は[[天若日子]]の妻の[[下光比売命]]に関連づけられる鳥なので、女主人公はかつての「太陽女神」だったと考える。この場合は、「建築工事」に関する職能神としての性質も有していたとすることの方が妥当かもしれない。である。 「雉も鳴かずば」と比較した場合、信州新町の「娘」は父親を死に追いやる[[天佐具売]]的な性質である。おそらく神話で[[天佐具売]]と雉の[[鳴女]]は「同一のもの(不吉な言霊で人を死に追いやる女神)」と考えられているのだろう。信州新町の「娘」も不吉な言霊を持つ性質で、彼女は雉の死と共に消えてしまう。この「娘」は[[天佐具売]]と[[鳴女]]を併せた機能を持っているようだ。雉を射た狩人は、松浦市・大阪市の伝承から推察するに、「娘」の夫であったかもしれないが、信州新町の話ではそのことは語られない。
女主人公の父親は小豆を盗んで罰を受ける。この点はガリア(現在のフランス付近)の伝承といえる「美女と野獣」の冒頭に似る。「美女と野獣」の冒頭では、旅の商人であった女主人公の父親が、たまたま迷い込んだいわば「魔法の庭園」で、無断で薔薇の花を折り取って罰を受ける。ガリアでは「木を切り倒す」ということを象徴とする神がいて、管理人の考えでは、この不吉な娘は、健御名方冨命彦神別神社(水内神社)の境内社・伊勢社に祭神として名が見える「'''伊豆玉姫命'''」を民間伝承化したものと考える。おそらく祭事に際して人身御供を定める権限のある女神と考えられており、それがたとえ、父親や夫であったとしても女神が定めた運命からは逃れられなかったものと思われる。[[鳴女]](雉)も伊豆玉姫命が定めた犠牲者としての女神だった可能性がある。[[鳴女]]は伊豆玉姫命と一体化する存在でもあるし、下位の女神として犠牲になる女神でもあったのだろう。「'''伊豆玉姫命'''」とは[[エスス伊豆能売]]という名である。この神は「木を切り倒す木こり」の図で表されるが、軍神でもあるので、彼の切っている「木」とは戦いの「相手方」を象徴しており、「木を切り倒す」とは「敵を倒す」ということを意味している、と管理人は考える。「キジも鳴かずば」の父親も、「美女と野獣」の父親もという女神に近い女神だったと考える。その原型は[[神阿多都比売]]という'''火山の女神'''だったと思う。'''火の女神'''であり、'''疫神'''であり、'''月神'''である。ただし、'''正しく取り扱えば人間の役に立ってくれる'''。あるいは'''子孫の人間を守護してくれる祖神'娘のために植物を本来の持ち主から切り離して盗みとろうとする''ともいえたのではないか。そして管理人の考えが正しければ、'。これは''伊豆玉姫命'''すなわち[[伊豆能売]]、[[エスス神阿多都比売]]のような神が「という女神と[[天佐具売]]は「同じ女神」ということになると考える。そして彼らは管理人の定義では「[[吊された女神]]」といえる。ともかく、この女神には「不吉な性質」があるので、用が済めば、あるべきところ、すなわち'''山'''や'''略奪して他人の財産を奪う月'''」という神話を象徴している行為と考える。これが「神話」として語られていた時代には、略奪を生業とするような戦闘的な民族にとっては「正当な行為」の神話とされていたものが、時代が下って略奪行為が非難されるような時代になると、逆に非難されて「罰を受けなければならない行為」へと変換され、神話として相応しくない物語になったので、神話が改変されたものと思われる。にお帰り願わなければならない性質もあるように思う。それで彼女は最後に消えてしまうのであろう。
「美女と野獣」では、父親が野獣の薔薇の花を折るが、娘が父親の身代わりとなって罰を受けることになる。「キジも鳴かずば」では、父親による窃盗行為後の展開が「美女と野獣」とは異なり、父親自身が罰を受ける。おそらく、これは「キジも鳴かずば」の方が古い形式の物語のモチーフを残しているため、と管理人は考える。=== 松浦市・大阪市の女神 ===松浦市・大阪市の話では、娘は父親の失言を嘆き、その死を悼む娘となっている。こちらは[[下光比売命]]的な女神といえよう。雉が亡くなってもこちらの女神は消えない。むしろ、疫神的な位置にいる雉女神が亡くなると、「娘」の病は癒えてしゃべれるようになった、という感がある。こちらはむしろ、[[誉津別命]]という話せなかった神が、出雲大神(大国主命)あるいは[[阿麻乃彌加都比売]]を鎮めることで話せるようになった、という神話を彷彿とさせる。[[誉津別命]]と比較するならば、鎮まる出雲大神(大国主命)が「殺される父親」、鎮まる[[阿麻乃彌加都比売]]が「殺される雉」、ということになりそうである。彼らが鎮まる(殺されて消える)ことで「娘」は話せるようになるのだ。大阪市の「娘」の'''照日'''(てるひ)という名前から、この娘は、出雲系の神話では[[下光比売命]]、記紀神話では[[天照大御神]]に相当する娘と考える。要は'''太陽女神'''である。時に'''良き水神'''としての性質も持つ。娘が「しゃべれるようになる」とは、「荒ぶる水の神」の性質が抑えられて、「穏やかな水神」の力が強まる、という意味があるものと考える。「人柱」とは'''「荒ぶる水神」になぞらえた者を殺すことで、「荒ぶる水神」の力を殺す'''、という意味の祭祀だったのではなかったのかと考える。
ガリアのエスス的な神は、日本では彼女の夫に相当する者は、[[須佐之男命阿遅鉏高日子根神]]とその子神の的な神と言うしかない。疫神としての性質が弱められた[[五十猛神阿遅鉏高日子根神]]に相当するように思う。特に切った木を利用して木工芸に使用する神はと言うべきであろうか。ただし、妻を家から追い出そうとするところに疫神であった名残があるように思う。悪い雉神は退治してくれるわけだから、桃太郎的な夫神ともいえるだろうか。ともかく、こちらの女神は幸せに長らえ、それに伴って川も静まり周囲の人々も平穏に暮らせたことと思う。こちらの女神は管理人が定義するところの「[[五十猛神養母としての女神]]なので、「木を倒して利用する神」としての[[エスス]]は、特に[[五十猛神]]に類似している。[[須佐之男命]]は体毛を抜いて木に変える神とされていて、植物神としての性質がある。そして、その利用用途も定めたとされる。[[須佐之男命]]の分身といえる[[五十猛神]]は、[[須佐之男命]]の仕事の延長として木を切り倒し、加工して利用する神でもあるので、本来は須佐之男命と一体であった神として「植物神」としての性質も有していたと考えられるのだが、[[須佐之男命]]から分離して「木を切り倒し、加工して利用する神」のみの性質となってしまったら、これを「植物神」とみなすのは妥当だろうか、と管理人は思う。「植物神」が自らを切り倒して加工したら、それは彼にとって「死」を意味する。そうしたら、誰が次に木工芸品を作るのだろうか。神は死んでしまったのに、ということにならないだろうか。これは'''母系社会の時代'''には、「'''種を植え、木を育て、切り倒して加工して利用し、また苗木を育てて木を再生させる'''」までが「女神」の管轄であり、男神は「'''育て利用される植物神そのもの'''」であったものが、世界の父系化が進むにつれて「母親」ともいえる女神の技を男神の技に変更してしまったために生じた矛盾であると考える。女神の技と権利を男神に移したので、植物神である男神は自ら生えて、自ら自殺して、自らを加工するような奇妙な性質を獲得することになったと思われる。このため、神話が民間伝承化した場合に「[[美女と野獣]]」のヒロインは「野獣を再生させる」というかつての「女神の技」の片鱗を残した女性となっているように思われる。日本の[[天若日子]]神話でも[[天若日子]]の妻の[[下光比売命]]にも同様に「再生の女神」の片鱗が窺える。このように「植物の育成と収穫と再生」が女神の技であるという神話は、エジプト神話のイシスとオシリスの物語によく残されているように思う。植物神であるオシリスは嵐により死んでバラバラになる(種になる)けれども、妻のイシス女神がそれを拾い集めて再生させるのである。」である。
自然の植物の大部分は雌雄同体であって1つの個体で生殖が可能であり、親が枯れてしまっても種が残ればそこからまた新たな芽を出すことは、現代的・科学的に事実であり、現代人であれば信仰とは関係なく自然現象として知っていることである。しかし、古代の人がこのような科学は、現象としては知っていても理論を知っていたとは思えないので、神話に置き換えるためには神話的理屈が必要であったと思われる。その解決法の一つが、「'''植物を自ら発生させることから、死後加工するまでを管轄していた神である=== 父親とは ===「雉も鳴かずば」の父親は、信州新町の話を除き、「地域のリーダー」的な存在である。これは地上の人々と仲良くして天に戻らなかった[[須佐之男命天若日子]]の投影でもあるし、出雲大神(大国主命)の投影でも良いと考える。大国主命も八十神に「'''」から、「'''木を切り倒し、加工して利用する神殺される神'''」という性質を分離して新たに」であるし、国譲りの際に、一応天の神に逆らった後、出雲大社に隠居のような形になる。信州新町の伝承でのみ父親は「小豆泥棒」という悪者の立ち位置であるが、一応「病気の娘のため」という口実がある。これは「人々の味方」ではなく、「天に背いた悪人」としての[[五十猛神天若日子]]を[[須佐之男命]]の子神として独立させたことではないだろうか。こうすることで、[[須佐之男命]]はいつまでも体毛から木を生やすことを続ける神となり、[[五十猛神]]はそれを切り倒して利用し続ける神になることができるのである。切り倒された植物の1本1本は死ぬが、親である[[須佐之男命]]は死なないし、植物たちを切り倒す「兄弟」ともいえる[[五十猛神]]も死なないことになる。の投影かもしれないと思う。あるいは地理的かつ神権的な問題で、長野県で「父親」に相当し、水に関わる神は諏訪大社の'''建御名方神'''と思われるので、その投影かもしれないと考える。建御名方神は大国主命の子神とされるが、天の神々に対する「叛意」については父神よりも強いとされる神である。また諏訪大社上社・諏訪氏と下社・金刺氏は伝統的に対立関係にあることが歴史的に示されている。信州新町のあたりは、北信濃の金刺氏の拠点の一つであり、健御名方冨命彦神別神社(水内神社)は金刺氏の神社と考えられるので、上社の祭神である建御名方神に必ずしも好意的でない伝承が意図的に残された可能性もある。
これを民間伝承と比較すると、「美女と野獣」の娘の父親はなお、管理人は大国主命と[[五十猛神天若日子]]的神(は「'''同じ神'''」だと考えている。大国主命は「'''真っ赤に焼けた猪を模した大岩を落として'''」殺されてしまう。このエピソードは、'''疫神でもある火の神との対立の神話'''が大国主命にあったことを示唆している。火の神と対立するのは'''水神'''ではないだろうか。大国主命には暗に水神としての性質があったと考える。「雉も鳴かずば」で、大国主命に相当すると思われる「父親」が水に関する災害で人身御供になるのは、大国主命自身が「'''鎮められなければならない水神'''」だったからだとも思われる。[[エスス天若日子]])、野獣は植物と一体化したは対になる男神が[[須佐之男命阿遅鉏高日子根神]]的神となる。「キジも鳴かずば」の場合は、娘の父親がである。[[五十猛神阿遅鉏高日子根神]]的神、盗まれた小豆がは[[須佐之男命]]の化身といえる。女主人公が植物の豊穣に関する女神の場合は、父親の死は[[オシリス]]の死のように次の植物への化生と豊穣へと続く可能性があるが、「キジも鳴かずば」は治水技術に関する話なので、女主人公には建設工事に関する職能神としての性質が求められているといえる。すなわち「キジも鳴かずば」は、建設工事に関する「神」としての権利と義務がまだ男性神に移行していない時代の思想を繁栄している物語なのである。また長野県信州新町水内は彦神別神神社があり、古代においては金刺氏の勢力範囲にあったと思われる地域なので、日本書紀の茨田堤の[[茨田連衫子]](まむたのむらじころもこ)の伝承と併せると、[[神八井耳命]]の子孫と言われている多氏系の氏族が、治水に関する建設工事に関わると共に、それに関わる(おそらく)[[人身御供]]に関わる祭祀の祭祀者として振る舞っていた事実がかつてあったのではないか、と思われる。茨田堤でも「キジも鳴かずば」でも[[人身御供]]に捧げられているのは'''男性'''なので、建築工事に関する的な疫神であり、火雷神系の雷神とも考えられる。とすれば、対極の位置にある[[人柱天若日子]]は男女を問わなかった可能性がある。そして、多氏系氏族の祭祀者としての権威は天皇の権威よりも「上」であるとみなされていた可能性があるように思う。には水神としての機能があったとも推察されるのではないだろうか。
「キジも鳴かずば」は、本来は建設工事を司る女神に小豆と小豆の化身とみなされる[[人身御供]]を捧げることで無事に建設工事が完遂された、という神話であったと思われる。この女神は元は植物神である小豆神の母あるいは妻とされていたと思われるが、父系の強化と共に、植物神の「娘」となり、神としての地位が低下していることが分かる。「しかし、「'''小豆を盗み利用する神鎮められなければならない水神'''」が」であるところの'''小豆神として大国主命'''[[人身御供]]に捧げられる、という点は[[須佐之男命]]的な「植物神」と、利用する神である[[五十猛神]]的神の性質が完全に分離しておらず、「利用する者が供物でもある」という矛盾が神話としては解消されていない状態といえる。「キジも鳴かずば」ではこの矛盾の解消のために「泥棒は罰せられねばならない」という論理を付け加え、利用する神である[[五十猛神]]的神の権威を否定して、植物神であるという理由とは別の理由で、彼が人身御供となることを正当化している。しかし、小豆ご飯(赤飯)が特別な霊的食べ物である、という思想も物語の中に残されることになった。小豆を混ぜて炊く赤飯は現代ではハレの日のご馳走とされるが、古代においては神に捧げられるものだったと推察される<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E9%A3%AF 赤飯](最終閲覧日:22-11-29)</ref>。とは何だろうか。
そして「キジも鳴かずば」では物語は建設工事の完遂で「めでたし、めでたし」で終わらず、更に追加された要素がある。# 主人公である娘が父親を失ったショックで唖になる、という要素(受罰的要素)# 主人公である娘がキジと一体化し、キジの死と共に彼女も姿を消す、という要素# 主人公を殺すのが狩人である、という要素# 「余計なことを話す者は不幸になる」という一般的な段階ではあるが「脅し」と取れるような要素である。また、松浦市の話では、父親は白犬と共に埋められており、「父親」が[[高野御子神]]のように犬と一体化した犬神であることが示唆されている。出雲系の神話としてみれば、管理人は「'''葦原醜男'''」という「'''葦'''」がつく名のとき、大国主命は犬神として現される可能性が高いと考えており、やはり大国主命が示唆されるように思う。建御名方神の場合は、子神とされる[[出早雄命]]と[[意岐萩神]]は少なくとも犬神の性質を持つと考えるので、「キジも鳴かずば」系の話では、「父親」は「良き犬神(白犬)」に相当する神として差し支えないと思う。
1の要素はローマ神話の=== 農耕祭祀との関連 ===信州新町の話は「小豆」と関連している。また、松浦氏の「父親」は'''田代近松'''という名で、農耕や松といった植物に関連があることが示唆される名である。「キジも鳴かずば」系の話は、ほぼ治水や水に関する土木工事の話となっているが、本来は農業の豊穣に関して、人や動物を生け贄に捧げた祭祀だったのではないだろうか。ミャオ族の先祖が興したと考えられている[[ラールンダ大渓文化]]の物語に似る。の[[ラールンダ城頭山遺跡]]の物語は下位の女神であるラールンダが余計なおしゃべりをするので、下を切り落とされた上に殺された、という筋である。また、天若日子神話ではキジの女神が「余計なことをしゃべった」という理由で天若日子に殺されているので、女主人公のトーテムが「余計なことをしゃべる鳥」であるキジであること、「余計なことをしゃべった」女主人公が唖になることは一体となって、では、ウシの下顎骨が人骨と同時に埋葬されていることが発見されており、農耕儀礼に捧げられた生贄と考えられている。人骨は彼らの遠祖であり、本来水神であったと思われる[[ラールンダアペ・コペン]]の物語から(中国神話における[[天若日子黄帝]]神話と「キジも鳴かずば」の両方に取り込まれた要素なのではないか、と個人的には考える。)になぞらえたもの、ウシは[[炎帝神農|炎帝]]になぞらえたもので、いずれも「'''鎮めなければならない疫神'''」だったと考える。なぜなら遠い先祖とはかつて人であって死んだ者にほかならない。古代中国では、人は死ぬと「鬼」になった、と考えられていたであろうが、'''通常ではない非業の死を遂げた者は、特に子孫に祟らないように注意深く供養して鎮めねばならないもの'''と考えられていたのではないだろうか。「キジも鳴かずば」の「父親」は先祖の「疫神」になぞらえて殺される(鎮める)ための生け贄だったのであり、その先祖とは荒れる水神のことを指したのだろう。それが、'''最初は農耕の豊穣を求める祭祀'''だったのが、日本に入ってきて、'''土木工事とその結果の安寧を求める祭祀'''に変化したものと思われる。
2、3の要素は、突然登場した狩人が主人公の化身であるキジを殺すことで、主人公の死を暗示している。おしゃべりで罰を受けた女神が殺される点はギリシア神話のパーン、ローマ神話のメルクリウスの仕業とされる。「キジも鳴かずば」では狩人は主人公の夫とはされていないが、ギリシア神話のパーン、ローマ神話のメルクリウスがいわば「妻的な女性を殺す」神であることから、本来の神話では狩人は娘の夫であったことが推察される。記紀神話では[[鳴女]]の夫の存在は語られず、[[天若日子]]が冤罪的な罰として[[鳴女]]を射殺す形に変えられている。=== 猿橋の話との関連 ===猿橋の物語は、地域共同体の中にそぐわない者を人身御供にしてしまった、という話。たまたま通りかかった旅人を人身御供にしてしまった、というパターンもよくある話である。自己犠牲の話ではなく、こちらの方が本来的な話に近いのではないか、と考える。疫神は村の外からやってくるものなのだから、外からやってきた者を疫神に見立てて、冥界(村の外部)に送り出す方が妥当といえる。その方が共同体の中から犠牲者を出すことについての良心の咎めも軽減される。
4の要素は、「余計なことをしゃべらないように」という物語の教訓的な要素として、ギリシア神話、ローマ神話と共通するモチーフである。これはギリシア神話でもさほど古い概念ではないため、日本神話に取り込まれた経緯が興味深く感じる。共同体の中から人身御供を選ぶ際には、犯罪者を選んだり、'''何か人と違ったところがある人'''を「共同体にそぐわない人」として血祭りに上げていたのだろう。
古代の日本は大陸より積極的に先進の文化と技術をを取り入れており、その中には原始キリスト教やローマ神話に関する知識もあったのではないかと思う。[[天若日子]]神話ではキジは[[天照大御神]]の使いとされているので、「キジも鳴かずば」においての女主人公とキジの死においても、太陽女神あるいは(かつ)職能神としての女神の権威を否定し、その地位を低下させる目的が暗喩されているのではないか、と考える。富山県南砺波市にある比賣神社では、キジを下光比売命の使いとしている。[[下光比売命]]は出雲系・賀茂系の神で高天原ではなく地上に住んでいる神といえる。太陽女神であるとしても、[[天照大御神]]よりも地位の低い「太陽女神」といえる。付近には長野県野尻から移住した氏族の建立した石武雄神社がある。石武雄とは、金刺氏の先祖である武五百建命のことと思われ、キジと下光比売命あるいは天照大御神とを結び付けてその権威を低下させようと試みたことに金刺氏が関与したのではないか、と管理人は推察する。すなわち、地方の民間伝承のみならず、記紀神話の内容にも影響を与え得るような立場に古代の金刺氏はいたのではないだろうか。=== 愛本姫社の話との関連 ===こちらは娘が「荒ぶる水神」の妻として人身御供になるパターンである。「父親」が人身御供になる話の方が古い時代の型であると考える。若干「自己犠牲」の精神も認められる。
太陽女神の地位の序列としてはただ、「'''水の中に消えた娘'''」の話だから「'''水商売の女'''」に見立てるのはいかがなものなのか、という感はある。どちらも「'''自分以外の人のために苦界に身を沈める存在'''」ではあるかもしれないが。相手が大蛇であっても、真剣に恋愛に生きる純情な娘と、相手が人間であってもお金にしか見えない商売人とでは全然違うし、神に対する敬意とはなんだろう? 世界的に有名でさえあれば、何でもいいのか? やっぱり神とは金とか名声なのか? と個人的には考えてしまう。
* [[天照大御神]] > [[下光比売命]] > [[鳴女]]ともかく、この「'''水商売をやってる豊玉毘売'''」という感の娘が、そんな風に取り扱った人間に対して、また祟りを起こしたら対処が必要、ということでエンドレスに人身御供の連鎖が続くことになり、祭祀のたびにお布施が必要になって坊主だけが肥え太る、となると立派なキリスト教神話のできあがりなのではないか、と感じるわけである。人身御供として苦界につき落とされる人が増えれば増えるほど、「魂'''だけ'''救ってやる」と言って彼らからむしり取れる収入が増えるような、おいしい「商売」はないのではないだろうか。
といえる。下位の女神ほど、人身御供、冤罪などで生命が奪われる可能性は高くなる。「キジも鳴かずば」で、物語の前半は=== キリスト教との関連(推定) ===おそらく「自己犠牲で死ぬ小コミュニティのリーダー」とは、'''人身御供を受ける側イエス・キリスト'''の性質が強い女主人公が、物語の後半では上位の神的存在であるになぞらえているのではないか、と考える。ただ、若い娘(女神)がその死に関わる、というのは、いかにも生け贄を求めて殺す「ネミの森」のディアーヌ([[アルテミス]])的存在だと感じる。地域の女神信仰の実情に合わせたものか、それともローマから持ち込まれたものなのか不明だが、古代の日本にはこのような女神を必要とする'''狩人[[金刺氏]]'''に事実上殺されてしまう点は神話・信仰における「太陽女神」の地位の低下を目論む金刺氏の思想の変遷を見るようで興味深い。女主人公の不幸な変遷を、フランスの民間伝承である「赤ずきん」と比べれば、下位の女神を助けようとするのがフランスの「狩人」であって、古い時代の女神信仰と女神に対する敬意がより色濃く残っているのが「赤ずきん」であるといえると考える。古代における太陽女神の地位を低下させようという動きが東洋の方でより盛んであったことが窺える。のような氏族もいたのであろう。殺された「父親」が「(冤罪であったとしても)泥棒の罪で殺された」とイエスの実情に沿った話になっているのは信州新町の話のみである。この話が一番古い話であり、他の地域の話はここから派生したものである可能性はないだろうか。
== 関連項目 ==
* [[人柱チャンヤン]]:人や動物を生け贄に捧げる意味について* [[鳴女天若日子]]** [[天若日子鳴女]]** [[エーコ-人身御供]]** '''[[ラールンダ秋鹿神社]]:'''高祖寺奥の院大日堂'''には「霊的な食物を盗む神」の伝承が伝わる。* [[美女と野獣会津比売神]]:キジも鳴かずばの「娘」に相当する女神と考える。
== 参考文献 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E9%A3%AF 赤飯](最終閲覧日:22-11-29)
* [http://www14.plala.or.jp/session21/minwa/hitobashira.htm 丹後の人柱]、松浦の民話(長崎県)(最終閲覧日:24-12-23):丹後の伝承はっこちらから写させて頂きました。23):丹後の伝承はこちらから写させて頂きました。
== 脚注 ==
[[Category:日本神話]]
[[Category:伝承列伝]]
[[Category:ローマ教ローマ教神話]]