== 祭神 ==
* '''大御饌津彦命 '''(おおみけつひこのみこと)
:: 天児屋根命の御子神・天押雲根命の別称で、水や食物を司る神であるとしている。天児屋根命の御子神・[[天押雲根命]]の別称で、水や食物を司る神であるとしている。
祭神については、大御気津姫命(おおみけつひめのみこと、[[大宜都比売神]])と考証する異説もある<ref>出口延経『神名帳考証』等。</ref>。また、神社名「マケ」は「御食(みけ)」から来たと考えられること、現行神事のお田植祭やお千度から農事に深く関わる神であることがわかることから、食物を主宰する食物神(御食津神[みけつかみ])であるとみられている(ただし、丹波道主尊を祀るとする説もあった)<ref name="調査報告">『式内社調査報告』。</ref>。
江戸時代に園部藩藩主小出氏の崇敬を受けて復興し、元禄年中(17世紀末)には本殿の修理を始め覆屋や拝殿・楼門・石鳥居等の再建、造営といった社頭整備が藩費によって行われた。また、小出氏歴代の祈願所とされて藩主の直参や代参が行われ、胎金寺が別当寺と定められた(本寺は九品寺)。
宝暦11年(1762年)12月18日夕刻、近接していた胎金寺の庫裏からの失火が延焼し、社殿を含む境内一円がほぼ全焼、この時に古記録・宝物類も失われたという。社殿の再建は宝暦14年(1764年)から行われ、藩主小出英持の援助や氏子]の寄進により[[明和]]4年(1767年)7月に完成した(現本殿ほか)。の寄進により明和4年(1767年)7月に完成した(現本殿ほか)。
明治の神仏分離で別当胎金寺を廃し<ref>同寺の什物等は神社へ継承された。</ref>、同6年(1873年)に近代社格制度において郷社]に列した。その後、同43年(1910年)には神饌幣帛料供進社の指定を受け、大正5年(1916年)3月6日に府社に昇格した。
== 主な祭事 ==
=== お田植祭 ===
お田植祭は当神社祭神の性格を表す竹井集落の[[五穀]]の豊穣を予祝する神事でお田植祭は当神社祭神の性格を表す竹井集落の五穀の豊穣を予祝する神事で<ref name="図説7-2-1" />、近世には5月5日(端午の節句)に行われたが、改暦によって6月5日となり、現在は6月5日に近い日曜日に行われている。
先ず神饌とともに粽を供えて祝詞を奏上し、その後拝殿に据えられた太鼓を取り囲む形で藍染めの木綿の絣を着した早乙女が輪になり、太鼓の拍子と歌に合わせて「お田植え踊り」を踊る。
=== 神幸祭 ===
神幸祭は摩気郷十一ヶ村(11社)の祭りで、近世には例祭に併せて8月[[晦日]]から9月[[朔日]]にかけて行われていた。明治16年([[1883年]])以降は10月14・15の両日となったが、更に[[平成]]15年([[2003年]])からは神幸祭を10月の第3土・日曜日に行っている。かつては宮本のほか、9集落11社の氏子が参加したが、現在黒田、[[園部町横田|横田]]、大村、口八田の4集落は参加していない神幸祭は摩気郷十一ヶ村(11社)の祭りで、近世には例祭に併せて8月晦日から9月朔日にかけて行われていた。明治16年(1883年)以降は10月14・15の両日となったが、更に平成15年(2003年)からは神幸祭を10月の第3土・日曜日に行っている。かつては宮本のほか、9集落11社の氏子が参加したが、現在黒田、横田、大村、口八田の4集落は参加していない<ref>以下、本項に就いては特記するものを除き全て『図説・園部の歴史』第7章第3節第5項に依る。</ref>。
; 前日
; 1日目
当日早朝、宍人から正副2名の使が当神社へ差遣され、酒や[[枝豆]]を献供する祭典(宍人献饌の儀)が行われた後、改めて[[午前]]10時から祭典が斎行され、[[午後]]2時に[[神輿]]が船阪の[[御旅所]]へ進発して神幸祭が始まる。神輿は途中で仁江の[[稚児]]行列に迎えられて蛭子神社へと向かい、拝殿に安置されて宮主や仁江の宮衆(前節参照)による祭祀を受けた後に再び御旅所へ向かう。すると今度は船阪の稚児行列が途中でこれを迎える形で合流し、夕刻御旅所へ到着、神輿が御旅所に設けられた仮殿へ安置されて、仁江と船阪から新穀を収めた[[俵]]の奉納を受ける。なお稚児については、仁江は女形、船阪は男形とされ、それぞれ女性あるいは男性の装束を着する定めとなっている。当日早朝、宍人から正副2名の使が当神社へ差遣され、酒や枝豆を献供する祭典(宍人献饌の儀)が行われた後、改めて午前10時から祭典が斎行され、午後2時に神輿が船阪の御旅所へ進発して神幸祭が始まる。神輿は途中で仁江の'''稚児行列'''に迎えられて蛭子神社へと向かい、拝殿に安置されて宮主や仁江の宮衆(前節参照)による祭祀を受けた後に再び御旅所へ向かう。すると今度は船阪の稚児行列が途中でこれを迎える形で合流し、夕刻御旅所へ到着、神輿が御旅所に設けられた仮殿へ安置されて、仁江と船阪から新穀を収めた'''俵の奉納'''を受ける。なお稚児については、仁江は女形、船阪は男形とされ、それぞれ女性あるいは男性の装束を着する定めとなっている。
昭和7年([[1932年]])頃までは[[園部町横田|横田]]の若宮神社から同様の神輿渡御があり、船阪の者はこれを迎えて御旅所まで随行、御旅所では摩氣、若宮両神社の神輿が並べられて同宿したという。昭和7年(1932年)頃までは横田の若宮神社から同様の神輿渡御があり、船阪の者はこれを迎えて御旅所まで随行、御旅所では摩氣、若宮両神社の神輿が並べられて同宿したという。
; 2日目
翌未明(午前2時頃)、竹井・仁江・船阪・宍人・大西・半田の宮衆を始めとする氏子が御旅所へ参集し、「練(ね)り」や[[角力]]の奉納が行われる。この時には宍人と大西から選ばれた沙汰人(さたにん)と呼ばれる者が宮司の指示を受けて神事を執り行う翌未明(午前2時頃)、竹井・仁江・船阪・宍人・大西・半田の宮衆を始めとする氏子が御旅所へ参集し、「練(ね)り」や角力の奉納が行われる。この時には宍人と大西から選ばれた沙汰人(さたにん)と呼ばれる者が宮司の指示を受けて神事を執り行う<ref>宍人の沙汰人は隔年、大西は毎年交替。</ref>。初めに沙汰人が「[[お神酒]]を奉れ」と命じて神事が始まり、船阪から選ばれた典供者が。初めに沙汰人が「お神酒を奉れ」と命じて神事が始まり、船阪から選ばれた典供者が[[榊]]を口に咥えて神前に神酒の満たされた[[瓶子]]2本を持参する。続いてそれを[[銚子]]に注いで神前に侍る宮司へ渡す。それを受けた宮司は別の瓶子に注ぎ直して献じ、銚子は典供者へ返す。次に沙汰人が「お神酒を下げよ」と命じると宮司は瓶子から[[盃]]へ神酒を注いでそれを神前に残し、残りの神酒を瓶子ごと典供者へ戻す。引き続き沙汰人は宮司へ「お神酒に参られ」と伝えて共に「船阪庁」という御旅所内の参集殿へ下がり、神酒と[[柿]]を切って作った肴で[[直会]]を行う。その後宮司と沙汰人が再び神前へ戻り、沙汰人が「お典供に立て」と命じると、典供者が大[[笥]]の神饌を2膳、小笥の神饌を11膳供え(大笥は当神社祭神用、小笥は摂社祭神用(摂社の祭神は各集落の氏神11社の祭神でもある)という)、練りへと移る。若宮神社の神輿が同宿していた当時は、典供者は二手に分かれて両神輿それぞれへ供える神饌を運び、若宮神社方は巫女がこれを受けて神輿へ献饌したという。なお、現在は略されているが以前は練りの前に沙汰人の「ではおろし」という合図で撤饌が行われていた。を口に咥えて神前に神酒の満たされた瓶子2本を持参する。続いてそれを銚子に注いで神前に侍る宮司へ渡す。それを受けた宮司は別の瓶子に注ぎ直して献じ、銚子は典供者へ返す。次に沙汰人が「お神酒を下げよ」と命じると宮司は瓶子から盃へ神酒を注いでそれを神前に残し、残りの神酒を瓶子ごと典供者へ戻す。引き続き沙汰人は宮司へ「お神酒に参られ」と伝えて共に「船阪庁」という御旅所内の参集殿へ下がり、神酒と柿を切って作った肴で直会を行う。その後宮司と沙汰人が再び神前へ戻り、沙汰人が「お典供に立て」と命じると、典供者が大笥の神饌を2膳、小笥の神饌を11膳供え(大笥は当神社祭神用、小笥は摂社祭神用(摂社の祭神は各集落の氏神11社の祭神でもある)という)、練りへと移る。若宮神社の神輿が同宿していた当時は、典供者は二手に分かれて両神輿それぞれへ供える神饌を運び、若宮神社方は巫女がこれを受けて神輿へ献饌したという。なお、現在は略されているが以前は練りの前に沙汰人の「ではおろし」という合図で撤饌が行われていた。
練りはその様子から「泥鰌取り」とも呼ばれるが、沙汰人と竹井・半田の角力取りによって演じられる。演者は1人宛刀を手に採り腰に魚籠を吊して御旅所に設えられた[[土俵]]を1回りし、その間刀で地を突いて「おったー」等と言いながら[[泥鰌]]を掴んで魚籠に入れる仕草をする。その後宮主の呼び出しで角力が行われるが、先に実際の取り組みが、次いで「半角力」と呼ばれるものが行われる。取り組みは「出角力」と「待角力」に分かれ、待角力方の角力取りが先に土俵へ上がって後に上がる出角力方からの技を一方的に受け、出角力方が勝ち役を、待角力方が負け役を演じる形で7番が行われる(但し、勝敗はつかない事となっている)。半角力は1人で角力を取る所作をするもの(一人角力)で、最後は投げ飛ばされたように転がる。これは稲霊である目に見えない摩氣の神を対手とする事を表し、その神に投げ飛ばされる事で神慮を慰め、五穀の豊饒を祈るものという。半角力が済むと、竹井と今度は船阪による練りがあり、神事を終える。練りはその様子から「泥鰌取り」とも呼ばれるが、沙汰人と竹井・半田の角力取りによって演じられる。演者は1人宛刀を手に採り腰に魚籠を吊して御旅所に設えられた土俵を1回りし、その間'''刀で地を突いて'''「おったー」等と言いながら泥鰌を掴んで魚籠に入れる仕草をする。その後宮主の呼び出しで角力が行われるが、先に実際の取り組みが、次いで「半角力」と呼ばれるものが行われる。取り組みは「出角力」と「待角力」に分かれ、待角力方の角力取りが先に土俵へ上がって後に上がる出角力方からの技を一方的に受け、出角力方が勝ち役を、待角力方が負け役を演じる形で7番が行われる(但し、勝敗はつかない事となっている)。半角力は1人で角力を取る所作をするもの(一人角力)で、最後は投げ飛ばされたように転がる。これは稲霊である目に見えない摩氣の神を対手とする事を表し、その神に投げ飛ばされる事で神慮を慰め、五穀の豊饒を祈るものという。半角力が済むと、竹井と今度は船阪による練りがあり、神事を終える。
角力は11社の氏子が参加する習いで、現在不参の4集落は竹井の者がその代役を務める形で古格を保っている。また練りに関しては、滑稽味を帯びたその様態から神との角力に伴うかつての負態(まけわざ)の名残とも思われるが、[[兵庫県]]の石上(いしがみ)神社に伝わる「なまずおさえ神事」とともに検討すべき伝承とされている角力は11社の氏子が参加する習いで、現在不参の4集落は竹井の者がその代役を務める形で古格を保っている。また練りに関しては、滑稽味を帯びたその様態から神との角力に伴うかつての負態(まけわざ)の名残とも思われるが、兵庫県の石上(いしがみ)神社に伝わる「'''なまずおさえ神事'''」とともに検討すべき伝承とされている<ref name="神々" />。
神幸祭2日目の午後2時頃、氏子が俵や[[弓矢]]・的・[[床几]]・折櫃等を持参して参集する。先ず船阪の者が俵と折櫃を神輿に献じ、祝詞奏上の後に沙汰人を先頭に、仁江・船阪の一行が[[幣束]]・弓・的・俵・折櫃等を捧げ、宍人と大西の当番が[[鋤]]・[[馬鍬]]を持ち、2頭の[[張子]]の[[神幸祭2日目の午後2時頃、氏子が俵や弓矢・的・床几・折櫃等を持参して参集する。先ず船阪の者が俵と折櫃を神輿に献じ、祝詞奏上の後に沙汰人を先頭に、仁江・船阪の一行が幣束・弓・的・俵・折櫃等を捧げ、宍人と大西の当番が鋤・馬鍬を持ち、2頭の張子の'''牛]]がその後に続いて1列になって船阪庁の周りを3周するお千度が行われる。お千度が終わると仁江と船阪の稚児が神輿の前で幣束を振り(奉幣)、次いで[[木馬]]に騎乗、的持ちが掲げる的を矢で射る流鏑馬(やぶさめ)が行われる'''がその後に続いて1列になって'''船阪庁の周りを3周する'''お千度が行われる。お千度が終わると仁江と船阪の稚児が神輿の前で幣束を振り(奉幣)、次いで木馬に騎乗、的持ちが掲げる的を矢で射る流鏑馬(やぶさめ)が行われる<ref>流鏑馬は以前は早朝に行われていた(『式内社調査報告』)。</ref>。流鏑馬が終わると神輿の還幸となる。
還幸は御旅所を後にした神輿を、竹井・仁江以外の者が篠山街道まで見送り、仁江の一行は仁江の公民館付近まで同行する。夕刻に神輿が摩氣神社に帰着すると、最後はこれを担いで激しく上下に揺すりながら拝殿の周りを1周し、神幸祭を終える。
なお、昭和37年([[1962年]])までは神輿を担いでの巡幸であったが、担ぎ手の減少により現在は台車に載せてこれを牽く形となっている。なお、昭和37年(1962年)までは神輿を担いでの巡幸であったが、担ぎ手の減少により現在は台車に載せてこれを牽く形となっている。
== 文化財 ==
== 現地情報 ==
; 所在地
* [[京都府]][[南丹市]]園部町竹井宮ノ谷3
* 車
** 駐車場:あり
; 周辺
* 胎金寺山 - 境内背後の山
* [[九品寺 (南丹市)|九品寺]]
== 参考文献 ==
* 植木行宣「摩気神社」(谷川健一編『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』([[白水社]]、1985年) ISBN 4-560-02217-8)
* 『園部町史通史編 図説・園部の歴史』、 園部町・園部町教育委員会、2005年
* 『日本歴史地名大系 京都府の地名』([[平凡社]])船井郡 京都府の地名』(平凡社)船井郡 摩気神社項
== 外部リンク ==