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507 バイト追加 、 2025年1月8日 (水)
男が姿を見て逃げ出す展開は黄泉国訪問に類似しており、見るなのタブーの形式を取る話であるとされる<ref>西郷, 1988, p254-255</ref>が、本文ではホムチワケは明確に禁を課せられていないため、伝承者や『古事記』編纂者によって意図的な改変が施されているのではないかとの指摘もある<ref>長野, 1998, p47-51, 60-63</ref>。
『古事記』でホムチワケの出雲訪問にヒナガヒメとの異類婚姻譚が挿入されている点について、上述した禁が書かれていないことやヒナガヒメが「恥ぢ」ている<ref group="注">[[伊邪那美命|伊耶那美命]]は辱(はぢ)、[[豊玉毘売|豊玉毗売]]は恥(はづかし)である。</ref>のではなく「患へ」ているという表記の相違、結婚したにもかかわらず子の誕生や豊饒をもたらすことなく破綻で終わらせるなどの物語の改変によって、国つ神の祟りや凶兆を受けた御子は天皇の位につけないという『古事記』中巻の定型のではなく「'''患へ'''」ているという表記の相違、結婚したにもかかわらず子の誕生や豊饒をもたらすことなく破綻で終わらせるなどの物語の改変によって、国つ神の祟りや凶兆を受けた御子は天皇の位につけないという『古事記』中巻の定型<ref group="注">『古事記』景行天皇条の倭建命に対する白猪、仲哀天皇条の香坂王・忍熊王に対する怒り猪がこれに該当。</ref>に当てはめ、ホムチワケが皇位を継承できない理由を説明しているとする説がある<ref>長野, 1998, p47-51, 60-63</ref>。この他にも、前述されるキヒサツミによる饗膳を出雲の服属を表しているとしたうえで、献上しようとしたら御子が言葉を発したため服属が完了せず、加えてヒナガヒメとの結婚の失敗を語ることによって出雲と中央政権との関係が改善しなかったことを示し、後の景行天皇条でのまつろわぬ者としての出雲の描写に繋がっていくとする見方もある<ref>岡本, 2007, p68, 73-74</ref>。
== 祀る神社 ==
* '''富能加'''神社(島根県出雲市所原町) 神社(島根県出雲市所原町、神門郡) - 主祭神について。式内社の富能加神社に比定される。社伝には本牟智和氣尊が火中で誕生したためホナカ→ホノカになったとあるが、『出雲国風土記』の社名(保乃加社と記載)は地名に由来を持つ例が多いため、有力な説とは考えがたい。ホノカがホナカ・ヒナガに類似しているため、後世に『古事記』の伝承と結びつけられたと思われる。式内社の富能加神社に比定されるが、所原の地は古代は無人であった可能性があるため、'''稗原'''の富能加神社(後述)も候補として挙げられている<ref>藪, 1983, pp665-667</ref>。何時の頃からか安谷の'''星神山'''の中腹の厳窟に鎮め奉り、麓に拝殿を設けて祭事を執行した<ref>[https://yomiagaeru.exblog.jp/23506421/ 富能加神社 ~ ホムチワケノミコト 出雲大神の祟り ~] 、蘇える出雲王朝(最終閲覧日:24-11-21)</ref>。明治44年に小野神社が鎮座していた現在地へ移転し、同49年に小野神社を当社と合祭した<ref>島根県神社庁, 1981, p282, 284-285</ref>。
* 市森神社(島根県出雲市稗原町) - 主祭神:阿陀加夜怒志'''多岐吉'''比売命。明治4年に神門郡'''稗原'''村(現:出雲市稗原町)の富能加神社を境内末社に定める<ref>藪, 1983, p665-667</ref>。『出雲国風土記』神門郡の不在神祇官社である'''加夜社'''に比定される<ref>島根県神社庁, 1981, p282, 284-285</ref><ref>中村, 2015, p196</ref>。</br>主祭神の父神は大国主大神、母神は朝山神社の玉邑比売命といわれる。この社は加夜床の地にあったが、中古市森へ奉遷して布場の守神とされて市守社、後市森社とよばれた。肥長比売命はもと風土記の保乃加社、式内社の富能加神社の御祭神である。出雲風土記抄・雲陽誌では'''多伎町多岐'''の現「加夜堂」が『出雲風土記』神戸郡記載の「加夜社」としている。</br>昔、石畑清谷へ星神が天降られたので、人々はこの'''星神を合祀して星宮神社とよぶようになった'''といわれている。この社は山寄鐘築境あたりにあったようだ。(市森神社 社務所)<ref>[https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8B%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%B8%82%E7%A8%97%E5%8E%9F%E7%94%BA2571%E3%80%8C%E5%B8%82%E6%A3%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D 島根県出雲市稗原町2571「市森神社」](最終閲覧日:24-11-21)</ref>
肥長比売の行動はあまりにも弥生系の女神には似つかわしくないので、縄文系の人々の神話だったのだろう、と管理人は考える。ただし、[[豊玉毘売]]のような一般的な[[メリュジーヌ]]譚も入ってきていて、元の形が崩れてしまっていて、縄文系の人々の間でも肥長比売は[[誉津別命]]的な神の母なのか妻なのか混乱していたのではないだろうか。そして、記紀神話の編纂者たちも、肥長比売の神話の元の形は知らなかったのかもしれないと思う。([[伏羲]]・[[女媧]]神話は意識していて、[[誉津別命]]には[[伏羲]]的性格も付加されているけれども。)知っていたら、もう少し原型が分かるようにまとめたことと思われる。
 
=== 肥長比売は祟り神ではないのか ===
肥長比売は疫神とはいえ、夫神を追い回すような神なので、彼女もまた疫神の一種とはいえないだろうか。とすれば、肥長比売は[[天甕津日女命]]の荒魂といえるかもしれない。そもそも[[誉津別命]]神話では、[[天甕津日女命]]と対になる[[大国主命]]もまた、[[誉津別命]]を話せなくした疫神のように描かれる。
== 参考文献 ==
[[Category:北斗女神]]
[[Category:医薬分身型女神]]
[[Category:加夜]]

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