==== 古代 ====
[[奈良時代]]・[[平安時代]]には貴族が[[鷹狩]]や守衛に使う犬を飼育する職として[[犬養部]](犬飼部)が存在した。奈良時代・平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使う犬を飼育する職として犬養部(犬飼部)が存在した。
平安京では、犬が人間の残飯や排泄物を食べていた。また、埋葬されない人の死体が放置され、犬に食われることが珍しくなかった{{Sfn|<ref>松井|, 2005|p=187}}, p187</ref>。
==== 中世 ====
[[鎌倉時代]]には[[武士]]の[[弓術]]修練の一つとして、走り回る犬を[[鏑矢#種類|蟇目矢]](ひきめや。丸い緩衝材付きの矢)で射る[[犬追物]]や犬を争わせる[[闘犬]]が盛んになった。鎌倉時代には武士の弓術修練の一つとして、走り回る犬を蟇目矢(ひきめや。丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになった。
肉食忌避の観念がある一方で、室町時代の[[草戸千軒町遺跡]]からは食用にした跡が残る犬の骨が見つかった{{Sfn|肉食忌避の観念がある一方で、室町時代の草戸千軒町遺跡からは食用にした跡が残る犬の骨が見つかった<ref>松井|, 2005|p=186}}。[[浄土真宗]]の宗祖[[親鸞]]は『[[大般涅槃経]]』を参考に浄肉(食べてもよい肉)・不浄肉(食べてはいけない肉)の区別を行った際、犬肉を猿肉などとともに不浄肉に分類するなど、犬肉食を忌避する考え方も生まれた。, p186</ref>。浄土真宗の宗祖親鸞は『大般涅槃経』を参考に浄肉(食べてもよい肉)・不浄肉(食べてはいけない肉)の区別を行った際、犬肉を猿肉などとともに不浄肉に分類するなど、犬肉食を忌避する考え方も生まれた。
南北朝時代以降には[[軍犬|軍用犬]]として犬を活用する武将も現れ、『[[太平記]]』には[[越前国]]鷹巣城南北朝時代以降には軍用犬として犬を活用する武将も現れ、『太平記』には越前国鷹巣城(現・福井県高須山)攻防戦に於いて、南朝方の守将、畑時能が愛犬「犬獅子」と2人の従者と共に寄せ手の北朝方の砦を攻め落とす逸話が記述されており、江戸時代に歌川国芳が[[干支]]の動物と縁の深い歴史上の人物を[[浮世絵]]に描いた『武勇見立十二支』にて[[戌年]]に畑時能と犬獅子が描かれるなど、人々に広く知られる存在となった攻防戦に於いて、南朝方の守将、畑時能が愛犬「犬獅子」と2人の従者と共に寄せ手の北朝方の砦を攻め落とす逸話が記述されており、江戸時代に歌川国芳が干支の動物と縁の深い歴史上の人物を浮世絵に描いた『武勇見立十二支』にて戌年に畑時能と犬獅子が描かれるなど、人々に広く知られる存在となった<ref>{{Cite web |url=http://www.oidenense.net/stories/hata/ |title=, 勝山物語(畑時能物語) |website= , おいでねんせカッチャマ |accessdate=, 2019-05-05}}</ref>。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[武蔵国]]の武将[[太田資正]]が、[[岩槻城]]と[[松山城 (武蔵国)|松山城]]の緊急連絡手段として伝令犬を用い、[[北条氏康]]方の包囲を突破して援軍要請に成功し、度々撃退していた逸話が『[[関八州古戦録]]』や『[[甲陽軍鑑]]』に記述されている。太田資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」と呼ばれ、日本における軍用犬運用の最初の例とされている。戦国時代には武蔵国の武将太田資正が、岩槻城と松山城の緊急連絡手段として伝令犬を用い、北条氏康方の包囲を突破して援軍要請に成功し、度々撃退していた逸話が『関八州古戦録』や『甲陽軍鑑』に記述されている。太田資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」と呼ばれ、日本における軍用犬運用の最初の例とされている<ref>{{Cite book|和書|author=関根久夫|title=, 埼玉の日本一風土記: 埼玉が誇る自然・歴史・文化を訪ねる読み物ガイド|year=, 2010|publisher=, 幹書房|, isbn=:9784902615630 |page=}}{{要ページ番号|date=2019<sup>''(要ページ番号、2019-05-06}}06)''</sup></ref>。日本の中世で犬が軍用に利用されたことを伝える逸話はこれだけのようである。日本では犬を改良して「武力」のひとつとして使うという思想はなかった{{Sfn|<ref>谷口|, 2012|p=67}}, p67</ref>。
==== 近世 ====