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若麻績氏が三輪氏系の氏族であれば、三輪山の大物主は神武天皇の舅(外戚)とされており、綏靖天皇の子供達からは曾祖父にあたる。ここから三輪氏系の氏族と皇姓とされる金刺氏が発生したとされており、彼らの実在性はともかくとして、金刺氏と若麻績氏が血族であることが示唆されるといえる。若麻績東人の出身である伊那郡若麻績里、善光寺がある水内群芋井はいずれも金刺氏の拠点があった地域である。若麻績氏は金刺氏の近縁あるいは側近といえるような氏族だったのではないだろうか。そしてどちらも大物主の配偶神から賀茂系の氏族へと繋がるの可能性がある。
若麻績氏はその名の遠り、麻に関する氏族と考える。筑摩郡には伊勢神宮の麻績御厨が置かれ、伊勢神宮に麻を供給していた。飯田市座光寺は古代における伊那郡麻続郷(麻績)と考えられている。座光寺には、高岡第1号古墳(6世紀前半築造)があり、古墳時代から馬の管理によって古代国家を支えていた有力な豪族がいた地域である若麻績氏はその名の遠り、麻に関する氏族と考える。筑摩郡には伊勢神宮の麻績御厨が置かれ、伊勢神宮に麻を供給していた。飯田市座光寺は古代における伊那郡麻続郷(麻績)で、麻の生産地だったと考えられている。座光寺には、高岡第1号古墳(6世紀前半築造)があり、古墳時代から馬の管理によって古代国家を支えていた有力な豪族がいた地域である<ref>[https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/gongakanga.html 恒川官衙遺跡]、飯田市HP、22-0-25(最終閲覧日:22-11-14)</ref>。 現在、善光寺には宿坊を含めた40近い支院が存在し、その内の約15ほどの寺院の住職が若麻績姓である<ref>[https://善光寺-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/%E3%80%90%E5%A5%87%E6%80%AA%E3%80%91%E9%95%B7%E9%87%8E%E2%99%A1%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%AB%E3%81%AF%E4%BD%95%E6%95%85%E3%81%8B%E3%80%8C%E8%8B%A5%E9%BA%BB%E7%B8%BE/%E8%8B%A5%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E6%80%A7/.html 【奇怪】長野善光寺の周辺には何故か「若麻績(ワカオミ)」の名前が多い!その理由を知って・・・・みたい?]、♀善光寺・御朱印♀、22-06-22(最終閲覧日:22-11-14)</ref>。 善光寺の御越年式は「堂童子行事」と呼ばれ、古来より善光寺三寺の中衆(浄土宗十五坊)が行ってきた。『堂童子絵巻』には <blockquote>開基善光卿以来若麻績氏が専任する香華、燈明、仏餉、茶湯等、檀越として如来に奉仕し来る所の常随給仕の当番役を云ふ。御越年の式は十二月二の申日の夜丑の刻に執り行ハるる祭事にして、祭式ハ若麻績家に相伝せらるる秘事にして、家督相続者のみに直伝相承せらるるもの。<ref>[http://kumi2.com/wakaomi/what_doudouji.html 堂童子について]、善光寺さん from 鏡善坊(最終閲覧日:22-11-14)</ref></blockquote> とあるとのことである。白麻で仕立てられた狩衣型の衣に、白麻の括り長頭巾を着用するとのこと(長野県民族資料調査報告書7『善光寺正月行事』)。祭祀の相続者は古くから、他から養子を迎え入れず、中衆間の往来に限られる血統相続が厳しく守られている、とのことで、堂童子行事は善光寺草創の時代までさかのぼって伝承されている、創建者一族にとって重要な行事といえる。 伝承によれば「諏訪大社の縁起には「諏訪神が丑三時に善光寺に舞い降りて、本堂裏の扉を開けて入り、仏に仕えて後、明け方帰っていく」と御越年式と関連する話が伝わってるとのこと。若麻績氏の祭祀に諏訪大社が関わっている、とみなされていることが分かる。また、『信濃奇勝録』には、本堂の後に立つ年越宮は八幡宮を祀ると云うとし、「毎年十二月申日夜半に遷宮あり、俗説に八幡宮は本地阿弥陀如来にて此夜は如来八幡宮となりて年をとらせ給ふと云伝ふ、中衆十五坊の内、二坊は臈僧とて除き、十三坊にて輪番に此事を勤む、是をドウドウシと云」とあるとのこと。駒形嶽駒弓神社には、如来八幡は「聖徳太子の馬」に乗って市中を巡った、とあるので、古い順に彦神別神、聖徳太子(黒馬)、八幡神を複合的に阿弥陀如来と習合させて善光寺の本尊、いわゆる「御年神」とみなしていたことが分かる<ref>[http://kumi2.com/wakaomi/1216_2/index.html 【御越年式について】]、善光寺さん from 鏡善坊(最終閲覧日:22-11-14)</ref>。馬や牛を主体とした伝承がある点は、善光寺が渡来系の氏族によって建立されたことを窺わせる。 越年式で堂童子(祭祀者)は『諸仏諸神の降臨を願い、天下泰平、諸人安全長久、五穀豊年、火難九難除滅などを古例にのっとり祈願する。』とのことで、来るべき新年の幸いを祈願することが越年式の目的といえる。 ==== 私的考察・堂童子について ====中国の星神信仰に「北斗星君」と「南斗星君」というものがある。道教では、この2神は一対とされ、「北斗星君」は死を、「南斗星君」は生を司るとされた。また、生と死を司る二人が許可すれば、人の寿命を延ばせるとも云われた。要は「不老不死」に通じる思想である。 また、北斗七星は柄杓の形をしていることから、瓢箪(の柄杓)の神である[[伏羲]]と関連づけられ、農業の豊穣をもたらす、とも考えられていた。更埴条里遺跡・屋代遺跡群からはヒョウタンで作った杓が発見された、とのことで、金刺氏は農業の豊穣を願うために北斗七星(伏羲)に対する祭祀を行っていた可能性があるように思う。また北斗七星は道教で天皇大帝とも呼ばれ、中国の皇帝や日本の天皇は北斗七星の化身として、国家に豊穣をもたらす王権者を称していたようである。 堂童子の祭祀は白い麻の衣をまとって行われ、麻の神の化身(植物神の化身)であると共に、白で現される星神の化身を思わせる。秘儀であって人目に触れることのない点は「隠れた星(黒星)」を思わせる<ref group="私注">星に白と黒の2種類がある、という思想は相撲における「白星」「黒星」という言葉に残っているように思う。</ref>。善光寺の延べる「御年神」とは「彦神別神」のことであり、北斗七星のことではないだろうか<ref group="私注">善光寺には「七」という数字にまつわる施設が複数存在する。</ref>。北斗七星こそが翌年の天下泰平や五穀豊穣をもたらしてくれるし、年に1度、そのために地上に降り立ってくれる、と考えられていたのかもしれない。文明が発達してきたので、更埴条里遺跡・屋代遺跡群の時代に比べて、織物の材料となる麻も重要な植物と考えられるようになったのではないだろうか。そして、地上に降り立った「彦神別神」が「白星」であるとするならば、彼の乗る「黒馬」は「黒星」の化身といえるのではないか。 一方、「彦神別神」と共に祀られている[[大宜都比売]]は、金星(太白)のことを指すのではないか、と思う。中国では金星に相当するのは[[九天玄女]]という女神なのだが、「黒」に象徴される女神で、黄帝の守護神であり軍神でもある。特に天下太平を彼女に求めても不思議ではない。また、[[大宜都比売]]は「蚕の女神」としても盛んに信仰されていたとのことなので、[[馬頭娘]]の故事の通り、「蚕(馬頭の虫)の母」である馬の女神としての意もあったかもしれない、と思う。[[九天玄女]]も絹の豊穣に関する[[織女]]も[[西王母]]信仰に関連し、[[西王母]]の化身といえるので、[[大宜都比売]]は[[西王母]]と[[九天玄女]]の化身であって、かつ「'''豊穣のための人身御供として殺される女神([[織女]]あるいは[[馬頭娘]])'''」として祀られていたと考える。善光寺の御年神の中には聖徳太子も含まれ、上宮王家の非業の最期を考えれば、善光寺には「非業の死を迎えた人」を祀る側面があるように思う。日本的な仏教には「死者を供養する」という性質が強いのでこれは特に異なこととはいえない。そして、神式でいえば御霊信仰といえると思うので、善光寺の古い性質としては、御霊信仰と死者の供養が組み合わされ、その象徴ともいえる彦神別神と[[大宜都比売]]を「御年神」として、天下太平・五穀豊穣を願う場だった、といえるのではないだろうか。特に麻(彦神別神)、絹([[大宜都比売]])、馬(黒駒)の豊穣が強調されて、「奥の院」と越年祭の神話は作られているのではないか、と思われる。その3つが善光寺が成立した時代、古墳時代から奈良時代にかけて善光寺平や信濃国で重要な産業であったからだと考える。 また、記紀神話的側面から見れば、[[大宜都比売]]を殺す植物神とは杉の木の神である[[須佐之男命]]である。とすれば、彦神別神は[[須佐之男命]](杉)を彦神別神(麻)とトーテムの植物を変えただけの神であって、事実上[[須佐之男命]]と同じ神であるといえる。そこで、彦神別神(麻)と須佐之男命の子神である年神と「同じもの」として祀り、祭祀を行っているのが善光寺なのではないだろうか。そしてこのように「北斗七星」と「金星(喰われ殺される金星)」を組み合わせて祀るのが、中部日本で特にみられる「[[天白]]信仰」であると考える。これは中国的な[[天狗(中国)]]と喰われ殺される[[嫦娥]]に対する信仰ともいえる。[[嫦娥]]は月の女神として有名であるが、彼女もまた[[西王母]]の化身といえるので金星(太白)も彼女のトーテムであっても矛盾はしない。[[天狗(中国)]]は中国の伝承では[[嫦娥]]の飼い犬で、かつ月食を起こす犬のように現されるが、世界各地の神話と比較すると、月食を起こすイヌ科の神獣は'''狼'''で表されることが多く、殺された[[蚩尤]]の化身のように表される話も多い。また、[[天狗(中国)]]の母も犬(あるいは狼)神として表されることも多い。善光寺の御年神は彦神別神や八幡神といった「子神」で表される傾向が強いので、[[嫦娥]]的女神の子神として考えられていると推察する。すなわち、'''[[大宜都比売]]とその子神の彦神別神'''を祀るのが善光寺信仰であり、堂童子であると考える。  つまり、堂童子の祭祀は、更埴条里遺跡・屋代遺跡群の北斗七星信仰を受け継ぐものであると同時に'''[[大宜都比売]]とその子神の彦神別神'''、要は'''[[塗山氏女]]([[嫦娥]])とその子の[[啓]]'''に対する祭祀であって、祭祀者である若麻績氏は金刺氏の同族と思われ、金刺氏は自分達のことを更埴条里遺跡・屋代遺跡群の時代から、高陽氏・高辛氏の子孫と考えていた渡来系の人々であるし、朝鮮半島の国家に出仕者を出せる、という点は、それなりの家柄の氏族であると、当時の朝鮮の人々にも考えられていたからではないのか、というのが管理人の考えである。[[大宜都比売]]は諏訪信仰的にいえば八坂刀売と同一の女神であるといえるかもしれない。八坂刀売は「殺される女神」ではないが、「蚕の母」としている神社もごく一部にはある。ただ、善光寺では記紀神話にも採用された公式な「蚕の母」である[[大宜都比売]]の方を蚕神として採用したのであろう。 そして、ということは、[[啓]]、[[須佐之男命]]、彦神別神などは一群の「北斗七星」と考えられる神々である、と管理人は考える。
=== 平安時代以降 ===
== 関連遺跡 ==
=== 管理人が関連があると推察している遺跡 ===
* '''更埴条里遺跡・屋代遺跡群'''(長野県千曲市):弥生時代の水田や水路が確認されている<ref>[https://naganomaibun.or.jp/archives/category/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%83%85%E5%A0%B1/%E5%8C%97%E4%BF%A1/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%80 柳沢遺跡]、長野県埋蔵文化センター</ref>。[[ヒョウタン]]で作った杓が発見され、祭祀で使用されていた形跡があるのではないか。[[ヒョウタン]]で作られた杓は北斗七星とも関連づけられ、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。また、この思想は西王母信仰あるいは伏羲信仰と関連しており、渡来系氏族と思われる金刺氏の文化としても矛盾しないように感じる。千曲市には須須岐水神社や森将軍塚古墳があり、古来より金刺氏の重要な拠点の一つである。で作られた杓は北斗七星とも関連づけられ、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。また、この思想は[[西王母]]信仰あるいは[[伏羲]]信仰と関連しており、渡来系氏族と思われる金刺氏の文化としても矛盾しないように感じる。千曲市には須須岐水神社や森将軍塚古墳があり、古来より金刺氏の重要な拠点の一つである。
* '''浅川端遺跡'''(長野県長野市):弥生中期~後期にかけても含まれる。遺跡内の竪穴住居跡からは、'''馬形帯鉤'''(うまがたたいこう)が出土した。高さ6・7センチ、幅9・2センチ、重さ40グラム。帯鉤は、中国や朝鮮半島で使われたベルトを留めるための金具(バックル)で、日本では古墳から見つかった例はあるが、住居跡ではないという<ref>[http://weekly-nagano.main.jp/2019/10/227.html 檀田の若月神社 ~境内に平安時代の庚申塔]、週刊長野記事アーカイブ、最終閲覧日:22-11-10</ref>。<br />
* '''墨坂神社'''(すみさかじんじゃ)
*:長野県須坂市に鎮座する神社。生島足島神社と共に畿内と信濃国にのみ見える。論社が二社存在する。
* '''当信神社'''(たぎしなじんじゃ)
*:長野県長野市信州新町に鎮座する神社。式内社。主祭神は大年神・健御名方命。社殿によると『嵯峨天皇の弘仁元年、地頭の仁科氏が社殿を再興。当時は、北へ200mほどの塚田の塚の上の小祠で大年神・健御名方命を祀っていたため大年塚と呼ばれていた。』とのこと<ref>[https://genbu.net/data/sinano/tagisina_title.htm 当信神社]、玄松子(最終閲覧日:22-11-15)</ref>。「たぎしな」の言葉は手研耳命<ref>[[神八井耳命]]の兄。謀反を起こし[[神八井耳命]]、綏靖天皇らに倒された、と言われる。</ref>に由来するのではないか、という説がある。
=== 関連寺院 ===
* '''川柳将軍塚古墳'''
*:長野県長野市にある前方後円墳で、長野盆地(通称:善光寺平)の中でも最古級にあたる4世紀前期の築造とされる。発見当時は多数の銅鏡や玉類、埴輪が発見されている。
* '''南向塚古墳'''
*:長野県長野市にある前方後円墳で、長野盆地(通称:善光寺平)の中でも最古級にあたる4世紀前期の築造とされる。発見当時は多数の銅鏡や玉類、埴輪が発見されている。長野盆地において、平野部に築かれた本古墳は貴重かつ特異な存在である。6世紀前半の築造と思われ、現在明確な出土品は瑠璃製勾玉1点のみである。2017年現在、付近の芋井神社が所有しているとのこと。上杉謙信にまつわる伝承もあるようだが、地元には由来として『孝元天皇の皇子、少名日子建猪心が水内に勅命で下向し開墾を進めたがこの地に斃れ、住民によって葬り、三面観音像を祀ったものである。故に王塚という。』という伝承があるとのこと。「少名日子建猪心」とは「少名日子建猪命」と書けると思うので、記紀神話の'''少名毘古那'''と'''武五百建命'''を合成したような神名であると思う。もしかしたら「少名日子」には「若い」とか「小さい」という意味があり、葬られているのは「若い[[武五百建命]]([[武五百建命]]の子神)」ということなのかもしれないと思う。古墳のある高田は尾張神社のある尾張部にも近く、いずれも水害の多かった長野盆地では古来より微高地で水害の起きない貴重な一等地であった。<br />芋井神社はかつて元諏訪社と呼ばれており、祭神は南方止売命、配祀に南方刀美命とある。これは八坂刀売と建御名方富命のことであろう。南方止売命(女神)の方が主祭神である点は、「母神」としての女神が被葬者(少名日子建猪命(子神))を守護する、という思想が強く出ていると管理人は感じる。記紀神話では[[武五百建命]]は[[神八井耳命]]の末裔とされているが、水内郡には特に諏訪大社との権威と結び付ける形で[[武五百建命]]は建御名方富命の子神である、という伝承がかつてあったのかもしれないと思う。その場合、'''[[武五百建命]]は彦神別神と「同一のもの」'''となり、善光寺の「奥の院」あるいはかつての年神堂に祀られていた彦神別神とは[[武五百建命]]のことである、といえる。記紀神話が編纂され、神話・伝承が整理されるにつれて、全国区的な祖神として[[武五百建命]]と[[神八井耳命]]、地方的な諏訪信仰と連動した祖神として彦神別神と建御名方富命の2大伝承が残されていったものと考える。
* '''森将軍塚古墳'''
*: 長野県千曲市(旧埴科郡)にある前方後円墳で、埴科古墳群(はにしなこふんぐん)に属する。築造は長野県内の前方後円墳の中でも最古級にあたる4世紀中期とされており、初代科野国造の建五百建命の墓とする説がある<ref>[http://www.nihonjiten.com/data/263245.html 科野国造 ( 信濃 )] - 日本辞典(2018年7月6日午前4時29分([JST)閲覧)</ref>。
* [http://weekly-nagano.main.jp/2019/10/227.html 檀田の若月神社 ~境内に平安時代の庚申塔]、週刊長野記事アーカイブ(最終閲覧日:22-11-11)
* [http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E5%B9%B4%E7%A5%9E%E5%A0%82 善光寺年神堂]、神殿大観、ANDO Mareaki、22-04-17(最終閲覧日:22-11-10)
* [https://善光寺-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/%E3%80%90%E5%A5%87%E6%80%AA%E3%80%91%E9%95%B7%E9%87%8E%E2%99%A1%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%AB%E3%81%AF%E4%BD%95%E6%95%85%E3%81%8B%E3%80%8C%E8%8B%A5%E9%BA%BB%E7%B8%BE/%E8%8B%A5%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E6%80%A7/.html 【奇怪】長野善光寺の周辺には何故か「若麻績(ワカオミ)」の名前が多い!その理由を知って・・・・みたい?]、♀善光寺・御朱印♀、22-06-22(最終閲覧日:22-11-14)
* [http://kumi2.com/wakaomi/what_doudouji.html 堂童子について]、善光寺さん from 鏡善坊(最終閲覧日:22-11-14)
* [http://kumi2.com/wakaomi/1216_2/index.html 【御越年式について】]、善光寺さん from 鏡善坊(最終閲覧日:22-11-14)
* [https://www.hineriman.work/entry/2019/09/28/063000 【長野市】善光寺七社と三鎮守を巡る 前編]、甲信寺社宝鑑、ひねりまん氏(最終閲覧日:22-11-11)
* [http://scoophands.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post-c3bf.html 物部氏と長野氏と金刺氏と信濃]、遺跡の見方と歩き方、06-07-24(最終閲覧日:22-11-11)
* [https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%B0%8F 今井氏]、日本通信百科事典(最終閲覧日:22-11-13)
* [https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/gongakanga.html 恒川官衙遺跡]、飯田市HP、22-0-25(最終閲覧日:22-11-14)
* [https://genbu.net/data/sinano/tagisina_title.htm 当信神社]、玄松子(最終閲覧日:22-11-15)
* [http://www.komainu.org/nagano/naganosi/imoi_takada/yuisho.html 芋井神社]、神社探訪、狛犬見聞録・注連縄の豆知識(最終閲覧日:22-11-15)
== 私的注釈 ==

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