差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
11,185 バイト追加 、 2022年11月18日 (金) 00:48
'''檀君'''(だんくん、단군 タングン)は、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、一般に紀元前2333年に即位したとされる伝説上の古朝鮮の王。『三国遺事』によると、天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる。『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は'''王倹'''(おうけん、왕검・ワンゴム)という。
== 概要 ==[[高麗|高麗時代]]の[[一然]]著『[[三国遺事]]』([[1280年代]]成立)に『[[魏書]]』からの[[引用]]と見られるのが、檀君の文献上の初出である。『[[東国通鑑]]』([[1485年]])にも類似の[[説話]]が載っている。しかし引用元とされる『魏書』([[陳寿]]の『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』や[[魏収]]の『[[魏書|北魏書]]』)などの中国の[[正史|史書]]には檀君に該当する記述がまったくない。 なお、[[偽書]]とされる『[[桓檀古記]]』、『[[揆園史話]]』には『三国遺事』とは異なる記述がなされている。 === 檀君の名の由来 ===檀君王倹という言葉は、もともとは由来の異なる二人の神、檀君と王倹を結び付けたものである。{{要出典範囲|檀君という名については、「〜[[君]]」というのは[[道教]]の比較的階級の低い神の称であり「[[檀]]の神」であることを表す。|date=2022年5月}}[[12世紀]]に成立した[[高麗]]の正史『[[三国史記]]』や『三国遺事』が書かれた{{要出典範囲|高麗時代に[[解熱薬|熱冷ましの薬]]として檀が大いに持て囃され[[流行]]した|date=2022年5月}}が、この檀は[[仏教]]説話に結び付いており、当時仏教の盛んだった[[妙香山]]がその信仰の中心地だった。檀は本来[[インド]]や[[東南アジア]]など熱帯系の植物で朝鮮には自生しないが、妙香山は今でも[[香木]]で覆われた山として有名であり、{{要出典範囲|高麗時代に檀と称して解熱薬とされた|date=2022年5月}}のはこちらであった。{{要出典範囲|王倹という名についても、[[平壌]]の古名として「王険」「王険城」が『[[史記]]』朝鮮列伝に出てくるのが初出で、元々は[[地名]]であったことが分かる。|date=2022年5月}}『三国史記』高句麗本紀第五東川王の条には平壌にかつて住んでいた[[仙人]]の名前として王倹という人名が出てくる。ただし『三国史記』『三国遺事』が書かれた高麗時代にいわれていた仙人とは、日本でいうようないわゆる山に篭って修行し神通力や長寿を得た人間のことではなく、[[妖精]]や[[妖怪]]に近いもので{{要出典範囲|「王倹仙人」とは平壌の地霊をいった|date=2022年5月}}。『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。 檀君神話には並行する伝承が存在し、[[夫余]]の[[建国神話]]{{efn2|夫余の建国神話に登場する[[天神]]「解慕漱(ヘモス)」と檀君神話の「桓雄(ハムス)」は漢字の[[当て字]]の違いで元々は同じ音を表しており、同名同一の神であった。雄の字を「ス」と読むのは[[韓訓]]。}}、及び[[ツングース]]系の諸民族に伝わる[[獣祖神話]]{{efn2|ツングース系の獣祖神話においては人間の[[性別|男女]]、熊の牡牝、虎の牡牝の組み合わせがすべて存在するが、民族の祖先となるのは人間の[[女性]]から生まれた場合だけで、父系の祖先が獣(虎か熊かはその民族または部族によって異なる)である。人間の男と牝虎の間には子供はできず、牝熊との間に生まれた子供は男が逃亡しようとしたため怒った母熊によって殺されてしまう。つまり本来の獣祖神話においては母系が獣の民族は存在できないことになっている。}}などがある。檀君神話は朝鮮の古来からの独立を示すための創作説話だろうと推測されている{{誰によって|date=2022年4月}}。 == 三国遺事における檀君 ==13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『[[魏書]]』と『[[朝鮮古記]]』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『[[朝鮮古記]]』は現在伝わっていない。『三国遺事』は、檀君王倹は1500年にわたって朝鮮を支配し、[[箕子朝鮮]]に朝鮮を譲ったあと、1908歳の余生を終え、阿斯達の山神になったと伝えている。 == 他の書の檀君 =={{要出典範囲|『[[帝王韻紀]]』([[1287年]])、『[[応制詩註]]』([[14世紀]])などにも記述があると韓国では主張されている。|date=2022年5月}} {{要出典範囲|また[[鈴木真年]]が著した『朝鮮歴代系図』には檀君の後裔と称する[[高句麗]]の蓋氏や[[弁韓]]王家、[[新羅]]王家の[[昔 (姓)|昔氏]]の系図が掲載されている。|date=2022年5月}}{{誰範囲|出典不明で後世の創作と考えられている。|date=2021年1月}} 中国の文献にも傍証するような記述はない。 == 檀君紀元 ==檀君の即位年は、紀元前2333年とすることが現代韓国では一般的になっており、かつてこれを元年とする[[檀君紀元]]が[[1961年]]まで公式に用いられていた。即位年に関する記述は、文献によって一定しないが、いずれも中国の伝説上の聖人[[堯]]の在位中とされている。紀元前2333年説は、『[[東国通鑑]]』([[1485年]])の檀君即位の記述(堯の即位から50年目」)によったものである。『三国遺事』では堯の即位から50年目としつつ、割注で干支が合わず疑わしいとされている。他には、『[[世宗実録地理志]]』(1432年)には「[[堯|唐堯]]的即位二十五年・戊辰」、つまり堯の即位から25年目とあり、李朝の建国が[[明]]の[[朱元璋|洪武]]25年であることに合わせてある。高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用と見られるのが、檀君の文献上の初出である。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくない。
== 内容 ==
=== 『三国遺事』 ===
13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『魏書』と『朝鮮古記』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『朝鮮古記』は現在伝わっていない。『三国遺事』は、檀君王倹は1500年にわたって朝鮮を支配し、箕子朝鮮に朝鮮を譲ったあと、1908歳の余生を終え、阿斯達の山神になったと伝えている。
 
『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に'''風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り'''<ref group="私注">この部分がニニギやニギハヤヒの降臨の模倣とされたのだろうか?</ref>、そこに'''神市'''という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて'''100日の間太陽の光を見なければ'''<ref>これは日本神話と比較すれば天照大神の「岩戸隠れ」に対応するものだと考える。一定期間の「籠もり」とその後の「再生」はトーテムが熊であれば、「冬ごもり」を指すのだろうと思われ、興味深い。</ref>人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。
虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「[[熊女]]」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。
=== 『帝王韻記』 ===
高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたという。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、'''桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれた'''という。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。 == 檀君紀元 ==檀君の即位年は、紀元前2333年とすることが現代韓国では一般的になっており、かつてこれを元年とする檀君紀元が1961年まで公式に用いられていた。即位年に関する記述は、文献によって一定しないが、いずれも中国の伝説上の聖人堯の在位中とされている。紀元前2333年説は、『東国通鑑』(1485年)の檀君即位の記述(堯の即位から50年目」)によったものである。『三国遺事』では堯の即位から50年目としつつ、割注で干支が合わず疑わしいとされている。他には、『世宗実録地理志』(1432年)には「唐堯的即位二十五年・戊辰」、つまり堯の即位から25年目とあり、李朝の建国が明の洪武25年であることに合わせてある。
== 史料 ==
今西龍は、韓民族に祖神あることは事実なり。…漢民族の祖神は、韓民族の遠き祖先が祖神となしたるものにあり。而して其名其徳の彷彿として窺ひ知るべきものに新羅の弗矩内あり、任那即ち加羅の夷毗訶あり。弗矩内は漢字訳して赫居世といふ『光を知らす』の義にして、新羅古代の王が奉祀せしものなり」と述べており、檀君神話の起源について歴史的観点から民族および地域の分析をおこない、「檀君は本来、扶余・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず」と結論づけた<ref>北山祥子, 2021, p112-114</ref><ref group="私注">扶余・高句麗・満洲・蒙古・日本そして中国の一部の「共祖」は必ずしもツングース系とはいえないのではないか? と思うが、これらの民族に共通した先祖と祖神神話があるという考えは管理人もほぼ同一といえる。</ref>。
 
== 私的考察 ==
ともかく、Wikipediaの記載は、神話の内容そのものよりも、現代的イデオロギーに関することが多くて「神話の内容はどこ?」と感じる。管理人は現代的イデオロギーについての知識を得ることは教養の一環という以上の興味はなく、あくまでも「比較神話」が興味の対象である。神話というものが一般的に「いつ成立したのか」という点は、歴史的事実にかかわらず「'''文字にして表されたとき'''」と考えている。口承文学は社会状況の変化に合わせて内容が変わり得るが、文字にして保存されてしまうと、どんな時代でも「どういう話だったっけ?」と読んで確認できるようになるので、変化のしようがなくなるからである。神話というものが「100%歴史的事実であるか否か」という点は、檀君神話が事実であれば、日本の天孫降臨も、中国の[[后稷]]も、ヴェマーレ族の[[ハイヌウェレ型神話|ハイヌウェレ]]も全て歴史的事実なので、その全てを客観的に証明して下さい、となる。そう、檀君神話は、拡く「植物化生神話」の一部である、というのが管理人の考えである。特に「植物の子孫」が王権を有した、というニニギの神話と関連が深く、日本の神話の模倣ではなく、日本の神話との類似姓が高いからこそ、文化的に朝鮮と日本が近い時代、すなわち朝鮮人と日本が地理的、文化的に近くに在り、枝分かれする前から原型が存在していた神話、といえると考える。
 
=== 植物神と檀君 ===
「檀」というと日本ではマユミという樹のことで、弓の材料として使われていた。日本と中国の林に自生している、とのことである<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A6%E3%83%9F マユミ](最終閲覧日:22-09-05)</ref>。
 
一方、「白檀」というとサンダルウッドのことで、インド原産で<ref>伊藤・野口監修 誠文堂新光社編, 2013, p70</ref>、インドでは古くはサンスクリットでチャンダナ(चन्दनम्, candana})とよばれ仏典『観仏三昧海経』では牛頭山(西ガーツ山脈のマラヤ山(摩羅耶山 秣刺耶山)とされる)に生える牛頭栴檀(ゴーシールシャ・チャンダナ , gośīrṣa-candana)として有名であった<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%B3 ビャクダン](最終閲覧日:22-09-05)</ref>。おそらく、檀君神話の「檀」はビャクダンのことを指すのであり、その点が「仏教の影響」と言われるのであろう。
 
 
東アジアにおける「植物神」は単なる植物の擬人化にとどまらず、「王権」と「栽培技術」とに大きく結びついたものとなっているように思う。中国の[[炎帝神農]]は植物神そのものというよりも「栽培技術の神」といえ、かつ王権者でもある。その代わり、植物そのものの神としての性質は弱い。中国神話では、植物神そのものとしての性質は[[后稷]]の方が強いと考える。死後、その姿が植物に化生したと暗示されているからである。[[后稷]]は天の神の子供であることが暗示されており、天の神と地上の女性との間に生まれた子供である点は檀君と共通している。ただし、檀君が王権者である点は[[炎帝神農]]と共通している。そして、檀君は王権者であることが強調されているためと思われるが、「農業や植物栽培の神」としての性質はほとんど示されていない。古代中国神話との関係でいえば、おそらく、[[炎帝神農]]と[[后稷]]は元は「同じ神」であって、それが特に「王権者」であることが強調される[[炎帝神農]]と、栽培者である[[后稷]]に分けられたのではないか、と思う。とすれば、[[炎帝神農]]の原型(これを「'''原神農'''」と呼ぶことにする。)には、本来穀物神や樹木神といった植物神としての性質も備わっていたと推察される。おそらく、中国東北部で発生した「原神農」が中国、朝鮮、日本へと枝分かれしながら分布し、各地でそれぞれに分化したものが、中国では[[炎帝神農]]と[[后稷]]になり、朝鮮では檀君となったのだと考える。そのため、檀君には[[炎帝神農]]と[[后稷]]の両方と共通した要素が含まれている。檀君に「栽培技術の神」としての性質が乏しいのは文章化された時代が13世紀と比較的遅く、為政者が農業技術の開発に直接関わるような時代ではもはやなくなっていたことも大きく影響しているのではないか、と思う。
 
日本神話との比較について。日本神話は、稲作に関連するニニギ、植樹と林業に関する須佐之男と[[五十猛神]]、物部氏の祖神であるニギハヤヒが主に「天から降臨した神」として挙げられると思うが、その他にも中津国平定に関わった、とされる天穂日命、天稚彦、建御雷神と、主たる「天から降臨した神」だけでも複数の神が存在する。管理人の考えでは、これらは元は一柱か二柱の神であったものが、それぞれの役割に応じて細分化されたものである。中でも植物に関するのはニニギと須佐之男・[[五十猛神]]である。ニニギは穀物神そのものである。須佐之男の子孫とされる神々には稲作の技術に関する複数の神々がいる。[[五十猛神]]は樹木の神であるのみならず林業や木地師の神でもある。そのため、須佐之男と[[五十猛神]]がどの樹木の神なのかというと日本では建築に良く用いられる「杉の木の神」とするのが妥当と思われる。杉の木は古語で「進木(すすき=まっすぐに伸びる木)」と言われており、須佐之男の名前の由来ともなっているのではないか、と管理人は思う。要は須佐之男には、栽培技術の神として[[炎帝神農]]としての性質と、樹木神としての性質の両方が含まれている。ニニギは[[后稷]]的な性質も有しているが、「王権の神」であるところは[[炎帝神農]]的でもあり、檀君とも共通した性質である。[[五十猛神]]は樹木神であるところが檀君と共通している。とすれば、ニニギ、須佐之男、[[五十猛神]]は日本に伝播した'''原神農'''が、それぞれの役割に応じて細分化したもので、それは中国に伝播したものが[[炎帝神農]]と[[后稷]]に分かれたのと似ているように思う。すなわち、日本神話と比すれば、檀君はニニギ、須佐之男、[[五十猛神]]を併せた神といえよう。檀君が日本の神々を模倣しているのではない。日本神話が、檀君の元となったと思われる'''原神農'''を3つ、あるいはそれ以上に分割して作られているのである。「天から降臨した神」という点は、檀君の父とされる桓雄にもその性質の一部が分けられているといえる。
 
=== 熊トーテムについて ===
檀君神話の檀君のトーテムは熊であると思う。そして、これが父系でなく母系のトーテムであることが興味深いと感じる。13世紀の朝鮮と言えば、儒教の影響もあるし父系社会であると思うし、母系の要素がどのくらい社会的に残存していたのか定かでないのだが、檀君神話にはトーテムが母方のものである、という母系の要素が残っており、それが檀君神話の起源が父系の文化が確立されるよりも前の古い時代にあることを示唆しているように思う。中国の神話では、炎帝や黄帝については「有熊氏」とか「有熊国」というものが関わっており、この国の住人であった黄帝と炎帝の父とされる者が「熊を操ることが巧みだった」と言われているのは、彼らのトーテムが熊であり、熊と近しい存在と考えられていたからではないか、と思う。ただし、中国の神話では黄帝と炎帝の「熊トーテム」は父系のものであって、母系のトーテムとはされていない。これは時代が下るにつれて、母系のトーテムが父系のトーテムへと変更されてしまったのではないか、と考える。日本神話は記紀神話の段階で、大抵が人間に近い人格神にされてしまっていて、熊トーテムの存在は明確でない。ただし、神話の中には名前に「熊」とつく神が複数存在するし、信仰の対象となっている「熊野」という地名が熊と神霊とに密接な関係があることを示しているように思う。よって、トーテムから見ても檀君は炎帝に近い存在なのではないか、と思われる。
 
また、檀君神話には熊と虎という2種類のトーテムが登場するが、熊は成功し、虎は失敗する、というようなトーテムによる行動結果の差があり、熊の方が虎よりも優位である、という表現がなされている。トーテム(出自)によって階級がある、という階級社会が形成されていることを示すものと思われる。
 
=== 岩戸神話と檀君 ===
檀君神話では熊女は自ら洞穴に籠もって人間になるための修行をする。それが成功したから彼女は人間になれる。日本神話では天照大神が岩戸に閉じこもり、結果的には部下の神々に救出される。これらは一方では、熊のような冬眠をする動物の冬ごもりから着想を得たものであると思うし、熊がトーテムであることとも関連すると思う。そして、この考えの発展系と言えるかもしれないが、日本や朝鮮には「[[棄老]]」という概念があったように思う。これは年を取った老人を山に捨てたり、穴に埋めたりするもので、日本では[[うばすてやま|姥捨]]、朝鮮では[[高麗葬]]という。日本では山に老人を捨てた、という風習は存在したか否かはっきりしないが、平安時代の貴族階級には仏教などとの影響と相まって、病人が出ると亡くなる前に墓所地に捨ててくる、という風習があり、「人が亡くなる前に看病をせずに遺棄してしまう」ということに抵抗のない文化・風習があったことが窺える。「洞窟に籠もる」ということは「[[棄老]]」を暗示しており、「'''殺されること'''」を意味すると思う。ただし、この「'''女性が洞窟的な場所に籠もる'''」という伝承群は、「'''そこからの救出'''」を伴っていることが多いように感じる。この点での類話としては西欧の民話である「ラプンツェル」や「赤ずきん」を想定している。ラプンツェルは捕らわれていた塔から救出される。赤ずきんは「狼の腹の中」から救出される。これらと比較すると、天照大神は閉じこもっていた岩戸から部下達に救出される点が共通している。檀君神話の熊女は'''修行のため'''に自ら洞窟に籠もり、満願があけると自ら出てくるので、その点が仏教の影響であると思う。本来は誰かに救出される話だったのではないだろうか。とすると、興味深い点が更にある。日本神話では天照大神は弟の須佐之男の狼藉で岩戸に籠もる。須佐之男は天照大神の弟ではあるが天照大神との間に子供を成しており、天照大神の夫である、ともいえる。朝鮮の本来の仏教の影響を受ける前の檀君神話では、熊女は夫の桓雄の狼藉を受けて洞窟に籠もったのだろうか、それとも、夫の桓雄に救出されて桓雄の妻となったのであろうか。個人的には、管理人は須佐之男と同じパターンではなかったかと思うのだが、興味深いことである<ref group="私注">管理人がこう考える理由は、桓雄も須佐之男と同様「天から降りてきた神」でからで、降りてきたことについてはやはり何らかの理由が本来の神話では存在したのではないだろうか。</ref>。
 
=== その他 ===
散逸した文献には、'''桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれた'''とあったとされる。このように
 
父親(祖父)-娘・熊女(と婿の檀樹神)-孫
 
という形式の神話は、賀茂氏の祖神神話と共通している。それは
 
賀茂建角身命(八咫烏)-玉依姫(と婿の火雷神)-賀茂別雷命
 
である。熊女の姿に母系のトーテムが残っているので、もしかしたらこちらの形式の方が古い形かもしれない、と管理人は考える。父系的な檀君神話の方が儒教的な影響を受けて成立したものとは言えないだろうか。賀茂氏的な母系の系図の特徴は、母系、すなわち熊女や玉依姫が「母系の女神」のように見えながら、その親として「父親」が存在しており、結果として「父系」の中の「母系」に過ぎない、という点だと思う。これは日本神話の
 
イザナギ-天照大神(と婿の須佐之男)-その子孫の皇族達
 
という系図も類似しているように思う。これらの系図の共通点は、父親の妻(娘である女神の母)の存在が非常に希薄である点だと思う。熊女と玉依姫の母の存在は明確にされていない。天照大神にはイザナミという母親がいるが、イザナミは黄泉の国にいるので、通常の神々の世界には関わらない。
 
 
また、「檀樹神」というと須佐之男には樹木神としての性質があるので、より須佐之男との類似性が高まるように思う。とすると、洞窟に籠もる所が天照大神と共通しているし、熊女には本来「太陽女神」としての性質も存在したのではないだろうか。西欧の民話には熊が異界の火の持ち主である、というものもある。須佐之男には「泣き喚く神」として雷神のような性質もあるし、檀君神話、賀茂神話、日本神話のそれぞれの関連性が興味深いといえる。
== 参考文献 ==
** 藤田昭造, 2003-03 , 韓国の日本史教科書批判, 明治大学教職課程年報, https://hdl.handle.net/10291/8087, 明治大学教職課程, issue25, pages75-86, naid:120001969902, ISSN:1346-1591, 藤田, 2003
** 池明観, 1987, 申采浩史学と崔南善史学, 東京女子大学附属比較文化研究所紀要, 東京女子大学, http://id.nii.ac.jp/1632/00017891/|issue=48, pages135-160, naid:110007187643, ISSN:05638186, 池明観, 1987
** 髙橋庸一郎, 『檀君神話』成立時期の周辺, 阪南論集 人文・自然科学編, 2005-03, volume40, issue2, pages1-13, naid:120005371390, http://id.nii.ac.jp/1104/00000135/, 高橋, 2005** 矢木毅, 近世朝鮮時代の古朝鮮認識, 東洋史研究, ISSN:03869059, 東洋史研究会, 2008, dec, volume67, issue3, pages402-433, naid:40016449498, doi:10.14989/152116, https://hdl.handle.net/2433/152116** 北山祥子, 2021, 日本人の檀君硏究, https://doi.org/10.18496/kjhr.2021.11.74.75, 한일관계사연구, 한일관계사학회, 北山祥子, 2021* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B 檀君](最終閲覧日:22-09-05)
== 関連項目 ==
* [[朱蒙]]
* [[后稷]]
* [[五十猛神]]
* [[棄老]]
* [[后稷]]
== 私的注釈 ==
{{DEFAULTSORT:たんくんしんわ}}
[[Category:朝鮮神話]]
[[Category:踏まれない神樹木信仰]]
[[Category:岩戸型]]

案内メニュー