タイやラオスではモン (Hmông, ม้ง, mong) で、白モンと青モンに分かれる。ベトナムでは'''モン'''(H'Mông)といい、黒モン族、赤モン族、花モン族と多彩に分かれる。タイ・ベトナムではメオ (Mẹo, แม้ว, mεεo) とも呼ばれるがこれは侮蔑語である。
== 日本人他との類似点と相違点 ==
明治35-36年に鳥居龍蔵が実施した調査において、もともと広西省を源郷とする狆家苗の衣服に、日本の銅鐸と同様の文様があしらわれていることが報告された。また、彼らが楽器として用いる銅鼓にも同一の文様があり、日本とミャオ族の間に何らかの関係があることが示唆された。なお、鳥居は銅鐸に描かれた衣裳、臼・杵、家屋などが当時のイ族の風俗と酷似していることも指摘している<ref>中国の少数民族地帯をゆく, 1980/1/1, 1980, 朝日新聞社出版局, pages=78−79, 184</ref>。
また、上述の洪水型兄妹始祖神話において、兄と妹が大木の周りを回ること、最初の子が目も口もない子であることなど、日本の国産み神話との類似性が伺われることを松前健が指摘している<ref>神々の系譜, 2016/1/13, 2016, 吉川弘文館, page22</ref>。
一方で、遺伝学的には、東北の日本人やチベット人などで高頻度で見られるY染色体のハプログループDは必ずしも多くない<ref>Li, Dongna, Sun, Yuantian, Lu, Yan, Mustavich, Laura F., Ou, Caiying, Zhou, Zhenjian, Li, Shilin, Jin, Li, Li, Hui, 2010-07, Genetic origin of Kadai-speaking Gelong people on Hainan island viewed from Y chromosomes, https://www.nature.com/articles/jhg201050, ournal of Human Genetics, volume55, issue7, pages462–468, en, doi:10.1038/jhg.2010.50, 1435-232X</ref>。ミャオ族のハプログループは「O2a2a1a2 M7(旧O3系)」が主体(5/7)である。
ミトコンドリアDNAハプログループの研究からミャオ族祖先の日本への移住の可能性に言及する研究者もいる。彼らはハプログループA6を提唱し、これが中国の漢民族、韓国人、および日本人に非常に低い頻度で見られることを指摘している。A6はミャオ族に見られる。またミャオ族にみられるハプログループR9cは、台湾、中国南西部、東南アジアの一部の集団でも観察されている。B4fは東アジア南部、特に台湾原住民に比較的よく見られる<ref>Wen, Bo, Li, Hui, Gao, Song, Mao, Xianyun, Gao, Yang, Li, Feng, Zhang, Feng, He, Yungang, Dong, Yongli, 2005-03-01, Genetic Structure of Hmong-Mien Speaking Populations in East Asia as Revealed by mtDNA Lineages, https://doi.org/10.1093/molbev/msi055, Molecular Biology and Evolution, volume22, issue=3, pages725–734, doi:10.1093/molbev/msi055, 0737-4038</ref>。
よって、遺伝学的にはミャオ族先祖の日本、台湾への移動の可能性が考えられ、'''ミャオ族、日本、台湾に共通した神話・伝承があったとしても不思議ではない'''、と管理人は考える。
== 歴史 ==
ミャオ族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在のミャオ族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹熙5年(1194年)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は'''揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)'''にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、'''先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいた'''という口頭伝承が残っているので、相互を結びつけようとする学者や知識人が多い。恐らく、ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定される。Y染色体ハプログループより、彼らの先祖は[[大渓文化]]の担い手であったことが分かっている。
1995年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した。これは、中国古代の伝説<ref>史記五帝本紀による。英語版では伝統的な中国の歴史観で紀元前2500年以前としているが定かではない。黄帝が紀元前2510年頃から紀元前2448年頃と考えられているため、最近の研究から2世紀ほど後の時代に修正されると年代の不一致の問題が生じることから、伝説扱いとなっている。管理人の私見では、黄帝は'''紀元前5000年前後'''の人物であると考える。良渚文化よりも後ではなく、前の人物である。伝説の涿鹿も、もっと南の揚子江流域での戦いではなかったか、と思う。</ref>に登場し、漢族の先祖とされる華夏民族の黄帝<ref>'''黄帝が純粋な漢民族(黄色人種)であったかどうかも疑問に思う。遼河文明(紀元前年頃-紀元前2900年頃)より緑色の眼をした女神像が出土していることだし、白人であっても不思議ではないと管理人は思う。'''</ref>と涿鹿(たくろく、現在の河北省涿鹿県付近)で争って(涿鹿の戦い)敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤と一緒に闘った九黎の子孫が南方に逃げて、後に「三苗」になったと説く。'''「三苗」は揚子江の中下流域にあった'''と推定し、北方からの漢族の圧力で、西南中国の山岳地帯に移動して、現在のミャオ族になったと主張する<ref>この点は事実ではないか、と管理人は考える。ただし、'''この点は事実ではないか、と管理人は考える。要は苗族の人々は、良渚文化の近縁の文化が先祖であると思う。彼らが蚩尤の子孫で、饕餮紋が登場するのが良渚文化以降であれば、そう考えるしかないのではないだろうか。黄帝が蚩尤を倒して、その首が饕餮になったのであれば、蚩尤が存在したのは河姆渡文化と良渚文化の間といえる。蚩尤'''とは実在するのであれば'''弁髪'''だったのではないか、と管理人は思う。</ref>。「三苗」「苗民」「尤苗」などの記述は秦漢以前の記録にとどまり、漢代の長沙・武陵蛮などを経て、宋代に至るまで、南方の人々は「蛮」と記されている。学問的には蚩尤とミャオ族の関係は否定される<sup>''要出典、2013年6月''</sup>。これは費孝通が唱えた「中華民族多元一体格局」(1988年)の議論に基づいて、1990年代に「中華民族」の統合を強調する中央の学説や、1994年に中国全土に展開した漢族主体の愛国主義の運動に抗して現れた、ミャオ族の知識人による新たな対抗言説である<sup>''要出典、2013年6月''</sup>。
文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。敗北した蚩尤を非漢族の英雄に祀りあげ、ミャオ族の先祖は蚩尤であるとする考えは、ミャオ族の知識人の間では定説化して、反論することができなくなっている。ミャオ族は文字を持たず、口頭伝承によって歴史を語り伝えてきたが、まさにそれゆえに、実証的な歴史とは異なる独自の歴史意識を新たに作りあげようとしている<sup>''要出典、2013年6月''</sup>。
== 宗教と民俗 ==
ミャオ族の多くはすべてのものに霊魂や生命が宿ると信じ、樹、岩、山、川、泉などを崇拝する。祖霊や祖先の祭祀を怠らない。毎年旧暦10月頃の卯日や辰日を年越しの日の苗年(ノンニャン)として祖先に感謝する祭りを行う。男性は蘆笙(キー)を吹き、女性は華麗な銀飾りと豪華な刺繍の衣装をきて舞う。この時は、男女の自由恋愛の機会でもあり、ユーファンと呼ばれる歌掛けで感情を表現した。貴州省の黔東南の香炉山で旧暦6月19日に行われるチーピエ(山に登る)の祭りは有名で、沢山の若い男女が「歌垣」に集まる。また、黔東南では、13年に一度の大きな'''祖先祭祀'''であるノン・ニュウを'''父系'''氏族(clan) が合同して行い、大量の水牛や豚を供犠して祖先を祀る。ノンとは「'''食べる'''」、ニュウは「'''鼓'''」の意味で、祖先の霊魂が宿るとされる'''楓'''香樹から作った木鼓をたたいて、祖先の霊を呼び戻して交流する<ref>「鼓」といった打楽器は'''雷神の象徴'''といえないだろうか。'''楓'''は蚩尤が死んで変化した木とされている。死んだ蚩尤が「は蚩尤が死んで変化した木とされている。ノン・ニュウとは「鼓を食べる」という意味であり、牛の皮を貼った鼓を叩いて先祖の霊を呼び、水牛を共食する、という祭祀であるとのことである。'''食べる鼓(=饕餮=雷神)牛が死んだ先祖と同一視され'''」に変化した、という思想が含まれる祭祀ではないだろうか。、一方で牛が水牛を食べ、神霊の階級として牛>水牛という世界観があるのではないだろうか。</ref>。銅鼓を使用することもある。黔東南のミャオ族の間では、楓香樹から生まれた蝶々のメイパンメイリュウが、樹下の水泡と恋愛して12の卵を生み、そのうちの一つから人間が生まれ、他の卵から生まれた龍や水牛と兄弟であるという創世神話が語られている。銅鼓を使用することもある。ノン・ニュウの由来については様々な伝承があるが、祖先の中でも悲劇の死を遂げた女性を祀ることが強調されることが多い。虎に食べられて死んだり、祭りの際に木鼓の下敷きになって死んだり、である。その他、男性の太陽神を祀る祖先祭を行っている地域もある死者と生者 : 中国貴州省苗族の祖先祭祀、鈴木正崇、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2002、p57。 黔東南のミャオ族の間では、楓香樹から生まれた蝶々のメイパンメイリュウが、樹下の水泡と恋愛して12の卵を生み、そのうちの一つから人間が生まれ、他の卵から生まれた龍や水牛と兄弟であるという創世神話が語られている<ref>これは死んだ神から生まれた娘(女神)が万物の'''母'''となった、という思想と思われる。これは天界から追放された須佐之男が地上の氏族の先祖となったり、楽園から追放されたアダムが人間の先祖となったりする神話的思想と類似性があるように管理人は思う。</ref>。その後、人類は天上の雷神と争い、大洪水を起こされ、瓢箪に乗って兄と妹が生き延びる。兄と妹が結婚して(兄妹始祖神話)、その子孫が現在のミャオ族になったという<ref>「大洪水」の神話は中国のものとほぼ同一の内容なのではないだろうか。ミャオ族が古代の中国の文化と共通した文化を有していることが分かる。</ref>。ノンニュウは神話にちなんで、蝶々や兄妹始祖、祖先や死者の霊を祀り、再び東方にあるとされる究極の故郷に送り返す祭りである<ref>死んだ祖神を降ろしてきて祀り、また送り返す、という祭祀は日本にもあるように思う。</ref>。一方、明代や清代には漢族が流入し、「漢化」によって、道教や仏教の影響を受けた地域もある。また、19世紀末からキリスト教の布教活動が活発化し、貴州省西北部の石門坎は1905年からプロテスタント布教の拠点となり、ミャオ語の文字が作られ、聖書も刊行されて、急速に改宗者が広がった。ちなみに、ミャオ語の聖書は日本の横浜で印刷されている。しかし、中華人民共和国の成立(1949年)以後、大躍進や文化大革命などを経て、宗教は弾圧され、民間信仰は迷信活動として禁止された。宗教や祭祀などは、改革開放が本格化した1980年代半ば以降に復興してきたが、現在は民族観光に利用されるなど、文化の商品化が進んでいる。西欧の学者はミャオ族の思考を、精霊信仰の概念で説明しようとしてきたが、進化主義の観点に立つ原始宗教のニュアンスがあって低く見下す価値観を払拭できない。アニミズムの概念を見直し、現地の見方による世界観・宇宙観の提示が求められる。
=== タイのミャオ族の精霊信仰 ===
* 陰界の精霊
: 陰界にはツォー・ニュン (Ntxwj Nyug) と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・'''トゥアム・テーム'''<ref>これが「饕餮」のことではないだろうか。</ref> (Nyuj Vaj Tuam Teem) がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊 (Siv Yis) もここに住むといわれる。
* 陽界の精霊
* 洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
* 射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。
=== 日本人との類似点と相違点 ===
明治35-36年に[[鳥居龍蔵]]が実施した調査において、もともと[[広西省]]を源郷とする狆家苗の衣服に、日本の[[銅鐸]]と同様の文様があしらわれていることが報告された。また、彼らが楽器として用いる[[銅鼓]]にも同一の文様があり、日本とミャオ族の間に何らかの関係があることが示唆された。なお、鳥居は銅鐸に描かれた衣裳、臼・杵、家屋などが当時の[[イ族]]の風俗と酷似していることも指摘している<ref>{{Cite book|和書|title=中国の少数民族地帯をゆく|date=1980/1/1|year=1980|publisher=朝日新聞社出版局|pages=78−79, 184}}</ref>。
また、上述の[[洪水型兄妹始祖神話]]において、兄と妹が大木の周りを回ること、最初の子が目も口もない子であることなど、日本の[[国産み神話]]との類似性が伺われることを[[松前健]]が指摘している<ref>{{Cite book|和書|title=神々の系譜|date=2016/1/13|year=2016|publisher=吉川弘文館|page=22}}</ref>。
一方で、遺伝学的には、東北の日本人やチベット人などで高頻度で見られるY染色体の[[ハプログループD (Y染色体)|ハプログループD]]は必ずしも多くない<ref>{{Cite journal|last=Li|first=Dongna|last2=Sun|first2=Yuantian|last3=Lu|first3=Yan|last4=Mustavich|first4=Laura F.|last5=Ou|first5=Caiying|last6=Zhou|first6=Zhenjian|last7=Li|first7=Shilin|last8=Jin|first8=Li|last9=Li|first9=Hui|date=2010-07|title=Genetic origin of Kadai-speaking Gelong people on Hainan island viewed from Y chromosomes|url=https://www.nature.com/articles/jhg201050|journal=Journal of Human Genetics|volume=55|issue=7|pages=462–468|language=en|doi=10.1038/jhg.2010.50|issn=1435-232X}}</ref>。[[ミトコンドリアDNAハプログループ]]の研究からミャオ族祖先の日本への移住の可能性に言及する研究者もいる<ref>{{Cite journal|last=Wen|first=Bo|last2=Li|first2=Hui|last3=Gao|first3=Song|last4=Mao|first4=Xianyun|last5=Gao|first5=Yang|last6=Li|first6=Feng|last7=Zhang|first7=Feng|last8=He|first8=Yungang|last9=Dong|first9=Yongli|date=2005-03-01|title=Genetic Structure of Hmong-Mien Speaking Populations in East Asia as Revealed by mtDNA Lineages|url=https://doi.org/10.1093/molbev/msi055|journal=Molecular Biology and Evolution|volume=22|issue=3|pages=725–734|doi=10.1093/molbev/msi055|issn=0737-4038}}</ref>。
== 食文化 ==
多くの場合、[[コメ|米]]を主食とし、[[野菜]]、[[肉]]類、[[魚]]などを[[トウガラシ]]、[[塩]]、[[酢]]などで味付けした副食と共に、1日3食食べる。独自の料理は「酸湯」であろう。[[漢族]]の料理に似た[[炒め物]]や[[蒸し物]]、魚の[[唐揚げ]]などの揚げ物もある。年中行事の祭りの日や結婚式などお祝いの日には、[[もち米]]で餅を作る習慣があり、草木汁で五色に色つけして食べる所もある。酒で客人をもてなし、即興の歌をうたって接待する。豆類も重要な食品で、納豆も食べる。日本のなれずしに似た発酵した鮨を食べ、祖先祭祀には必ず備える。[[蕎麦]]も作り、トウガラシと[[醤油]]の味付けで食べる。ミャオ族独自の正月の苗年には、もち米で作った餅と飯と酒に、[[ブタ|豚]]料理を用意する。1990年代以降、[[貴州省]]の[[貴陽]]や[[凱里]]、[[北京市|北京]]など、中国の都市にはミャオ族料理の専門店ができているが、村の料理をアレンジした創作料理が多い。多くの場合、米を主食とし、野菜、肉類、魚などをトウガラシ、塩、酢などで味付けした副食と共に、1日3食食べる。独自の料理は「酸湯」であろう。漢族の料理に似た炒め物や蒸し物、魚の唐揚げなどの揚げ物もある。年中行事の祭りの日や結婚式などお祝いの日には、もち米で餅を作る習慣があり、草木汁で五色に色つけして食べる所もある。酒で客人をもてなし、即興の歌をうたって接待する。豆類も重要な食品で、納豆も食べる。日本のなれずしに似た発酵した鮨を食べ、祖先祭祀には必ず備える。蕎麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。ミャオ族独自の正月の苗年には、もち米で作った餅と飯と酒に、豚料理を用意する。1990年代以降、貴州省の貴陽や凱里、北京など、中国の都市にはミャオ族料理の専門店ができているが、村の料理をアレンジした創作料理が多い。
== 関連項目 ==
* [[大渓文化]]
* [[七夕神社]]:招魂幡と日本の祭祀・伝承との関連について
== 参考文献 ==
* Wikipedia:[[鈴木正崇https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F ミャオ族]]『ミャオ族の歴史と文化の動態ー中国南部山地民の想像力の変容ー』[[風響社]]、2012年。(22-08-21)** 鈴木正崇『ミャオ族の歴史と文化の動態ー中国南部山地民の想像力の変容ー』風響社、2012年。** 鈴木正崇・金丸良子『西南中国の少数民族ー貴州省苗族民俗誌ー』古今書院、1985年。* [[鈴木正崇]]・金丸良子『西南中国の[[少数民族]]ー[[貴州省]]苗族民俗誌ー』[[古今書院]]、1985年。* 曽士才「ミャオー交差する民族エリートたちの思いと願いー」末成道男・曽士才(編)『講座 世界の少数民族ーファースト・ピープルズの現在ー』第1巻(東アジア)明石書店、2005年。* [[曽士才]]「ミャオー交差する民族エリートたちの思いと願いー」末成道男・曽士才(編)『講座 世界の少数民族ーファースト・ピープルズの現在ー』第1巻(東アジア)[[明石書店]]、2005年。* 谷口裕久「モンー国民国家と『民族』の現在ー」林行夫・合田濤(編)『講座 世界の少数民族ーファースト・ピープルズの現在ー』第2巻(東南アジア)明石書店、2005年。* [[谷口裕久]]「モンー国民国家と『民族』の現在ー」[[林行夫]]・合田濤(編)『講座 世界の少数民族ーファースト・ピープルズの現在ー』第2巻(東南アジア)明石書店、2005年。* 村松一弥編訳『苗族民話集ー中国の口承文芸ー』平凡社、1974年。* [[村松一弥]]編訳『苗族民話集ー中国の口承文芸ー』平凡社、1974年。死者と生者 : 中国貴州省苗族の祖先祭祀、鈴木正崇、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2002、p56-57
== 外部リンク ==
* [http://www.recordchina.co.jp/group/g435.html レコードチャイナ:ミャオ族(苗族)] {{ja icon}}* [http://www.hmongnet.org/hmong-au/chmong.htm チャイニーズ・オデッセイ] {{en icon}}
== 参照 ==
{{DEFAULTSORT:みやおみやおそく}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:ミャオ族神話]]
[[Category:民族他]]