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また、仁多郡条には、横田郷、三処郷、布施郷、および三澤郷の4つの郷を指して、「以上の諸々の郷より出す所の鐵、堅くして、尤も雑具を造るに堪ふ」との記述がある。「鐵」とは鉄を指します。これらの記述から、当時、出雲国には川から採取した砂鉄から鉄を作り、鉄器に加工する技術が存在し、田畑の耕作や収穫に使われる農具や日用具などが生産されていたことがわかる<ref>[https://tetsunomichi.gr.jp/fascinating-tatara/tatara-in-folklore/ 出雲国風土記に見る「鐵」]、出雲國たたら風土記(最終閲覧日:25-02-16)</ref>。
 
== 伊毘志都幣命 ==
伊毘志都幣命は『出雲国風土記』にのみ登場する神である。一説には農耕拓殖の'''女神'''といわれているが、風土記にも性別の記述はなく、今ひとつ明らかでない。多久和の飯石神社の由緒書には、
 
<blockquote>伊毘志都幣命は天照大神(あまてらすおおみかみ)の第2子・天穂日命(あまのほひのみこと)の御子・天夷鳥命( あめのひなどりのみこと)のことで、別名・武夷鳥命(たけひなどりのみこと)と同一神であるとされている。また、出雲国造家の祖神・出雲伊波比(いずものいわひ)神とも称されており、 今も飯石神社の例大祭(毎年11月4日)には、出雲大社の宮司が参向し、奉幣が執り行われている。</blockquote>
 
とあるとのこと<ref>[http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_chugoku/shi_iishi/iishi.htm 飯石神社]、巨石巡礼(最終閲覧日:25-02-17)</ref>。
== 私的考察 ==
「開拓を行った女神」といえば、岩見の[[乙子狭姫]]を連想させる。[[乙子狭姫]]は赤雁の背に乗って(おそらく天から)やって来た、とされるが伊毘志都幣命は天夷鳥命の別名とも言われ、鳥神でもあったことを連想させる。[[乙子狭姫]]は伊毘志都幣命が民間伝承化したもので、かつ[[大宜都比売]]の神話と組み合わされたものかもしれないと考える。
 
ただし、現在では伊毘志都幣命は[[野見宿禰]]と、渡来系氏族の技術でもたらされた古代出雲の製鉄産業と関連づけられる傾向が強いように思う。「石鉄川(いしすきがわ)」という地名にも「鉄」という文字が使われている。もしかしたら、飯南町の今石神社も本来は「飯石神社」だったのではないか、と想像するが、この地には「野見」という地名が残っており「'''伊毘志都幣命の子孫を名乗る野見氏'''」がいて、その直接の祖神的存在が'''[[野見宿禰]]'''だったのではないだろうか。彼が「土師氏の祖」とされるようになったのは'''野見氏が出雲を出て後'''のことであり、出雲にいた時には、'''製鉄を行う渡来人を束ねる立場にいたのが野見氏だった'''のではないか、と考える。
 
伝承では、[[野見宿禰]]は[[当麻蹴速]]を倒し、葛城を領地としたと伝わる。おそらく、出雲にいた時は野見氏は
 
天穂日命 → 伊毘志都幣命 →→ 野見氏祖神([[野見宿禰]])
 
という系図を持っており、そのまま葛城に進出したために残されたのが、[[葛城国造|為志神社]](奈良県葛城市林堂)なのではないだろうか。為志神社の鎮座地は葛城氏が束ねていた渡来系技術者集団の居住地である<ref>[https://ameblo.jp/keith4862/entry-12430980554.html 爲志神社 (改定)]、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:25-01-16)</ref>。出雲の時代から渡来系技術者を束ねていた野見氏が葛城で、その体制を引き継ぎながら祖神を祀る[[葛城国造|為志神社]]を建立したのではないか。そして、ここで氏族の名前を「葛木氏」と改め、系図も
 
[[高御産巣日神]] →→ 陶津耳命 →→ 剣根命
のように、[[高御産巣日神]]あるいは[[神産巣日神]]をはじめとして、剣根命を祖神とするものに書き換えたと思われる。「陶津耳命」という名からも「陶器」に関する氏族であることがうかがえる。
== 参考文献 ==

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