差分

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また、杉尾山麓の左右には陪塚(ばいしょう)を従がえており、杉尾山より峯続きの山頂海抜212メートルの気延山(きのべやま)一帯にある200余りの古墳群の中でも最大の古墳となっている。
当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、天照大神の葬儀執行の詳細な記録があり、先導は伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長は大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)と記載され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは「嘘楽」と表記し、葬儀であることを示している。当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、[[天照大御神|天照大神]]の葬儀執行の詳細な記録があり、先導は伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長は大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)と記載され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは「嘘楽」と表記し、葬儀であることを示している。
また、銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者の折口信夫は天照大神を三種に分けて論じ、「阿波における天照大神は、水の女神に属する」として、「最も威力ある神霊」を示唆しているとしたが、これは余りにも知られていない。なお、当社より下付する神符には「火付せ八倉比賣神宮」と明記されている。また、銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者の折口信夫は[[天照大御神|天照大神]]を三種に分けて論じ、「阿波における[[天照大御神|天照大神]]は、水の女神に属する」として、「最も威力ある神霊」を示唆しているとしたが、これは余りにも知られていない。なお、当社より下付する神符には「火付せ八倉比賣神宮」と明記されている。
鎮座の年代は定かではないが、安永二年(1773)三月の古文書にある「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五(2105)年を経ぬ」の記録から逆算すれば、起源前332年(孝安天皇61年)に当たる。しかも、その伝承時期が安永二年よりも遡ると仮定すれば、鎮座年代はさらに遡ると推測される※(由緒書およびWikipediaの内容には計算違いがあるため、ここで修正しています)。
また、当社は正一位杉尾大明神、天石門別 八倉比売神社(あまのいわとわけ やくらひめじんじゃ)などと史書に見えるが、本殿には出雲宿禰千家某(いづものすくねせんげなにがし)の謹書(きんしょ)になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の扁額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元する鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。そのため、天照大神のイミナを「撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)」と申し上げるのも決して偶然ではない。古代阿波の地形を復元する鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。そのため、[[天照大御神|天照大神]]のイミナを「撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)」と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお、本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井(あめのまない)がある。元文年間(1736~1741年)まで十二段の神饌田(しんせんでん)の泉であった。現在大泉神として祀っている。
次に国が浮いた脂のように漂っているときに、葦の芽が生えるように生まれた神を國常立尊(クニノトコタチ)という。
その後 生まれた神に伊邪那岐神(イザナギ)次に妹の伊邪那美神(イザナミ)がおり、この二柱の神によって国土や海原、および山川や諸々の神が産み出された後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神(ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)という。生まれた神に[[伊邪那岐神]](イザナギ)次に妹の[[伊邪那美神]](イザナミ)がおり、この二柱の神によって国土や海原、および山川や諸々の神が産み出された後、[[伊邪那岐神]]が左の目を洗った時に生まれた神の名を[[天照大御神|日靈大神]](ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)という。
最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『羽々矢(はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『天羽々矢(あめのはばや)』と『天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。最初に高天原で戦に備えた後、[[天石門別神|天石門別(あまのいわとわけ)の神]]に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『[[天羽々矢|羽々矢]](はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『[[天羽々矢]](あめのはばや)』と『[[天之麻迦古弓|天麻迦胡弓]](あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。
よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。
* 奥ノ院・五角形の磐座: 社殿裏手へ約100メートル、標高116メートルで、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部の頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれ、その上の青石の祠の中に砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が祀られている。 一説には'''卑弥呼の墓'''であるという。
* 摂社・大泉神社: 境内より北西約500メートルの山中に「天の真名井」と呼ばれる五角形の井戸があり、傍らの石積みの祠に祀られている。天文年間までは十二段の神饌田の泉であった。
 
== 八倉比売を祀る神社 ==
=== 石刀神社(一宮市浅井町) ===
愛知県一宮市浅井町にある神社。尾張国中島郡の式内社「石刀神社」という説がある。崇神天皇の代、創建されたという。祭神は八倉比売神とされているが、現在も正式な社殿はなく、巨岩を神体としている。御神体の巨岩は、長さ約6尺、幅約4尺の漆黒の岩で、太陽の光で黄金色に輝くという。この岩は胴体岩ともいう。境外に約6尺四方の巨岩('''尾'''岩)がある。祭祀対象が岩であることから、古代の崇拝の形態が残っているといえる。江戸時代は「'''黒岩'''天王」と称していたという。明治時代に石刀神社に改称したという<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%88%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE#%E7%9F%B3%E5%88%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%B8%82%E6%B5%85%E4%BA%95%E7%94%BA%EF%BC%89 石刀神社](最終閲覧日:25-02-18)</ref>。
 
== 私的考察 ==
「天石門別八倉比賣大神御本記」は偽書であるという説が有力だ、とのことだが、「偽書」の意味が不明と感じる。「歴史的事実を記していない」という点を「偽書」と呼ぶのであれば、古事記の神代の記述も偽書である。「伝承を記載したもの」を総じて「偽書」と定義するのであれば、グリム童話集も「偽書」と言わざるを得ないだろう。
 
当社ともう一つの「一宮」の論社である上一宮大粟神社の伝承と併せて、
 
「'''太陽女神が亡くなって、月の女神あるいは水神女神に変じた。'''」
 
という伝承が根底にあったものと推察される。水神女神とは、丹生都比売あるいは広瀬大社の若宇加能売命といえる。でも、もっと普通に
 
「ハイヌウェレ(太陽女神)が亡くなって、月の女神あるいは芋の女神に変じた。」
 
と短く分かりやすい話にしてくれれば良かったのに、と個人的には思ってしまう。四国は日本の中では南の方に位置するので、古くから芋に関してハイヌウェレ的な神話が強くあったのではないか、とも思うし、そのような神話の上にこの伝承は立脚していると思う。
 
天照大神と天石門別が矢を放って聖地を定める点は、[[天道日女命]]が息子の天香山命に矢を射させた、という丹後半島の伝承と共通する。また、天石門別は天照大神を助け付き従っているのだから、天照大神と天石門別の関係は、丹生都比売と高野御子神の関係に似ている。日本では、「太陽女神とそれを(洞窟から)助け出した若者」は「母息子」として語られることが多いようである。
 
ただし、苗族の民話に「囚われの女性を若者が助けて結婚する」という話があり、グローバル的にはこれは「ラプンツェル」の類話なので、物部氏系の氏族がこの2神の関係を「母子」としている方が全体から見ればやや特殊なのである。そして、古事記に至ると、天照大御神と手力男命は「母子」の関係ですらなくなってしまう。
 
ともかく、古代の徳島は、神々の名前を別に書き換えて、それまでの神話を整理して統合したり、分離したり、拡張したり、という作業も行っていたところ、と述べるしかない。当地でまず
 
「太陽女神が死んで月の女神(でなければ豊受のような豊穣の女神)や水神女神に変化した。」
 
という総合的な神話を作った上で、これを2つに分離して、一つは「八倉比売は天照大御神」という伝承にし、もう一つは「八倉比売は大宜都比売」という伝承にしたものと思われる。併せれば
 
「天照大御神は大宜都比売である」
 
となって、八倉比売はいらなくなるのだが、彼女がいないと作り替えもできなかったので、便宜的に作り出した女神だったのだといえるのではないだろうか。こうして作り替えられた天照大御神と大宜都比売(言い換えれば豊受大神)は、中央にフィードバックされて各地に拡がり、伊勢の内宮と外宮に新たに再編されて祀られることになるのだが、それに関わっているのも阿波忌部氏ではないだろうか。
 
ということで、八倉比売と天石門別命の伝承は、夫婦神であった彼らを、母子神へ、そして全くの赤の他人へと書き換えるための伝承だったと考える。
 
それでも管理人は、天照大御神と手力男命、言い換えればラプンツェルと彼女の王子様が「夫婦であった」という伝承の片鱗を日本の国内に見いだすことができて嬉しく思う。
 
また、管理人はこの八倉比売というのは、「八坂刀売」という名の女神にも変化しているのではないかと考える。阿波忌部氏とは「神話を作り出す役目」も負っていたかもしれないと考える。死したる八倉比売を女王・卑弥呼になぞらえるのであれば、卑弥呼とは太陽女神になぞらえられた女性である、ということを阿波では認識していた可能性もあるように感じる。
== 参考文献 ==
== 外部リンク ==
* [https://www.awanavi.jp/spot/20475.html 八倉比売神社] 徳島県観光情報サイト 阿波ナビ
 
== 関連項目 ==
* [[天石門別神]]:八倉比売神と対になる神。
* [[深淵之水夜礼花神]]:近い性質の女神ではないだろうか。
== 脚注 ==
{{DEFAULTSORT:やくらひめしんしやあめのいわとわけやくらひめしんしや}}[[Category:日本神話]]
[[Category:徳島県]]
[[Category:愛知県]]
[[Category:神社]]
[[Category:水神|*]]
[[Category:太陽神]]
[[Category:医薬神]]
[[Category:吊された女神]]

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