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* 后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社)
*: 式内大社。祭神は安房神の后神とされる。論社に洲崎神社(祭神:天比理乃咩命)と洲宮神社(祭神:天比理乃咩命)(ともに千葉県館山市。元々は同一神社か)。『類聚三代格』には「膳神」を祀る「阿房の刀自部」が見え、このような女性祭祀集団との関連性が指摘される<ref>千葉県の歴史 通史編 古代2, 2001年, p604-612</ref>。
* [[布良崎神社]](千葉県館山市)布良崎神社(千葉県館山市):'''天富命'''、須佐之男尊、金山彦命
*: 安房神の最初の鎮座地を称する。
* [[下立松原神社]]*: 式内社。[[南房総市]]に論社2社。祭神に天日鷲命(阿波忌部祖)。式内社。南房総市に論社2社。祭神に'''天日鷲命'''(阿波忌部祖)。* [[遠見岬神社]](千葉県[[勝浦市]])遠見岬神社(千葉県勝浦市):'''天富命'''
*: 天富命の没した地という。
== 忌部氏の系図とそれに対する批判 ==
忌部氏の系図とされるものは、[[安房神社]]に伝わったとされる「安房国忌部家系」、[[下立松原神社]]に伝わったとされる「忌部岡島家系」、「斎部宿禰本系帳」の3種があり、現在国会図書館デジタルアーカイブにて公開されている忌部氏の系図とされるものは、安房神社に伝わったとされる「安房国忌部家系」、下立松原神社に伝わったとされる「忌部岡島家系」、「斎部宿禰本系帳」の3種があり、現在国会図書館デジタルアーカイブにて公開されている[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538213]が、これらの系図には[[国学者]]・[[小杉榲邨]]による頭書が記されている。その内容は、それぞれの系図に対する批判([[鈴木真年]]による偽作を看破している)である{{efn|が、これらの系図には国学者・小杉榲邨による頭書が記されている。その内容は、それぞれの系図に対する批判(鈴木真年による偽作を看破している)である<ref>「安房国忌部家系」の頭書の原文「明治九年四月、小杉椙邨今の戸主高山義行に就いて、この家系本書と云うものの巻子を目撃するに、その料紙は美濃帋というものをつなぎ立て、正楷にものせる筆蹟など、今四五十年ばかりに過ぎるものと見ゆ。されど、紙中のすすけ痛みなどのやうは今少し古びたる如くにもしたり。軸は無けれど、表紙の修復は赤地の錦と云うものの色もあせ、金もさびて打見には殊勝なり。全編すべて疑わしきものなれども、何の種とする残闕などありてかくの如く成文せしならんとかつかつ思ゆる所なきにあらず。されば、暇のひまひま原本に比べ見るに、この写本は全く細矢康雄がさかしらに句読、及、傍訓などものせしならん。 原文は白文也。原のままに赭色をさして備考に当てんとす。}}{{efn|</ref><ref>「忌部岡島家系」の頭書の原文「明治九年八月、椙邨の岡島家に依頼して此家系原本を目撃するに、美濃帋に本行のごとくして、今三四五年前に執筆せし如く見ゆる一本を便りにつけて指出せり。この家、近来、度々焼失にて何も旧物なしと云う。この家系は他家より写しを取りて、今、伝来のものとすとぞ。実に論外の事ならずや。今の戸主義鑑に面語せざれば委しく聞く由なし。尚、この項に出せる小野家系の論に併せて説くことなし。往見すべし。}}{{efn|「斎部宿禰本系帳」の頭書の原文「明治九年八月、今の戸主小野義久に親しく接して、この本系帳と云うもの今の原本を見るに同じく巻子にして表装は利休紙と云う茶色形の物もて新しくしつらいたり。さて、その本文の筆蹟も高山のよりは今一際後のものと見えて、料紙は西の内と云う紙を上下の裁ちめでわざとしどけなきさまに贋作せり。この諸すべて江戸人鈴木舎人([[鈴木真年]])の手に成りよし。六年七月、栗田寛、語りし事ありしを記念すれば、直ちに其の話を義久に面語するに顔うちあからめて鈴木がこの本系帳を見て・こはいと誤まれり。自ら輯録せる古系譜に比較して改正せば、いとめでたからんと説く。またまたよきやうにとて依頼せしかば、三四十日経て一本かき調えてものせしを別に持っており、と答う。余、又いえらく其れはいとよき事なり。同じくは其の鈴木が自筆の別本をも見せよかしとてその後十日許り経てかの別本を見るに思ひしに違わずに、その本系帳の種本なり。熟々按ずるに、かの鈴木が自筆本をそここことわざと系統を倒置し、或いは、年序の先後など誑かして全くは別本の如く窺え出でたることその跡鮮やかなり。余、事に煩わしければ、今この書には心して手を加えず、余、別に鈴木が自筆本を写させ置つれば、なほ折を見てその別本を見比べて白々しき知れ事を発明し給え。鈴木舎人は、余、文久二年の春ばかり、初めて邂逅し、その後、中絶せしが、亦、この数年、折々に往来する人ながら、その心述は正しからざる如く人々云い、誹れり。 </ref><ref>「斎部宿禰本系帳」の頭書の原文「明治九年八月、今の戸主小野義久に親しく接して、この本系帳と云うもの今の原本を見るに同じく巻子にして表装は利休紙と云う茶色形の物もて新しくしつらいたり。さて、その本文の筆蹟も高山のよりは今一際後のものと見えて、料紙は西の内と云う紙を上下の裁ちめでわざとしどけなきさまに贋作せり。この諸すべて江戸人鈴木舎人(鈴木真年)の手に成りよし。六年七月、栗田寛、語りし事ありしを記念すれば、直ちに其の話を義久に面語するに顔うちあからめて鈴木がこの本系帳を見て・こはいと誤まれり。自ら輯録せる古系譜に比較して改正せば、いとめでたからんと説く。またまたよきやうにとて依頼せしかば、三四十日経て一本かき調えてものせしを別に持っており、と答う。余、又いえらく其れはいとよき事なり。同じくは其の鈴木が自筆の別本をも見せよかしとてその後十日許り経てかの別本を見るに思ひしに違わずに、その本系帳の種本なり。熟々按ずるに、かの鈴木が自筆本をそここことわざと系統を倒置し、或いは、年序の先後など誑かして全くは別本の如く窺え出でたることその跡鮮やかなり。余、事に煩わしければ、今この書には心して手を加えず、余、別に鈴木が自筆本を写させ置つれば、なほ折を見てその別本を見比べて白々しき知れ事を発明し給え。鈴木舎人は、余、文久二年の春ばかり、初めて邂逅し、その後、中絶せしが、亦、この数年、折々に往来する人ながら、その心述は正しからざる如く人々云い、誹れり。 今は、中徒町二丁目辺り卜居して、司法省明法寮の出仕なりしか、今もかの省律令に関係する事、顧問として出仕すると云う。さて、猶原系譜贋作の名を取りて、柳庵翁に譲らぬほとのことなりと聞く。義久云う。我が家は中頃、度々の失火により、系譜も伝来の重器など皆焼失して実に慷慨に勝てず。この本系帳はいささか語り伝えし事と高山氏の系譜等を斟酌して、近来ものせし物成りとの云い伝えなりと云えり。之を以てしても、鈴木が贋作を主張せることを分別すべし。さて、この三家の系譜、三年庚午の度、神祇官より諸社に命じられて十ヶ条のご下問の 折、言上せる記録の内に見ゆ。最初、高山家の系譜には採るべきものあるにや、殊に、伝来の様も今少しく古かるべし。岡島・小野両家は恐らくご下問の折、卒然綴り合わせたるものならんと想像す。かの鈴木が手を出したという時代など思い合わすべし。細矢康雄は何の心もつかざるか。蓋し、意ありてこの贋物を信用せるか。聊かも疑うべからず。}}。 == 脚注 =='''注釈'''{{reflist|group="注"}}<references group="注釈"/ref'''原典'''{{reflist|group="原"}} '''出典'''{{reflist|2}}
== 参考文献・サイト ==
*[http://www.awainbe.jp/ 忌部文化研究所]
*[http://www3.tcn.ne.jp/~aska/ 阿波歴史民族研究会]
 
== 脚注 ==
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