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48 バイト追加 、 2025年1月5日 (日)
== 山陰道 ==
=== 丹波(丹波・丹後) ===
* 旦波県主:丹後国竹野郡・丹波郡を本拠とした氏族。『古事記』においては、由碁理の娘・竹野比売(丹波竹野媛)が開化天皇の妃となり、比古由牟'''須美'''命(彦湯産隅命)を産んでいる。また、『日本書紀』は四道将軍のひとりである丹波道主王を彦湯産隅命の子とする異伝を載せる。丹波国造(野田川水系)の勢力拡大に押され、旦波之大県主(竹野川水系)は5世紀後半には衰退したことが、丹後地域における大型古墳の分布状況から推測されている。そのためであろうか、後裔氏族を史料上から確認することはできない命(彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと))を産んでいる。また、『日本書紀』は四道将軍のひとりである丹波道主王を彦湯産隅命の子とする異伝を載せる。丹波国造(野田川水系)の勢力拡大に押され、旦波之大県主(竹野川水系)は5世紀後半には衰退したことが、丹後地域における大型古墳の分布状況から推測されている。そのためであろうか、後裔氏族を史料上から確認することはできない<ref>[https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/ujizoku/tanihanoooagatanushi/ 旦波之大県主]、國學院大学古典文化事業(最終閲覧日:25-01-04)</ref>。斎宮を立てる慣習がある点、「須美(墨)」という言葉に関連する点など、長野県の金刺氏の古い文化との共通点があるので、旦波県主は'''多氏系'''の氏族ではないだろうか。中心となる神社は[[竹野神社]]であろう。
== 山陽道 ==
=== 吉備(備前・備中・備後・美作) ===
* 三野県主:伝承によれば、崇神天皇の時、吉備津彦命が四道将軍として、山陽道に派遣され、その子孫は吉備医として繁栄し、川島・上道・三野など7つの県の県主を同族で占めていたと言われている、とのこと<ref>[https://townweb.e-okayamacity.jp/mino-rengou/minorekisi/minoomi/minoomi.html 三野臣](最終閲覧日:25-01-04)</ref>。対応するのは吉備津神社。岡山県岡山市北区吉備津にある神社。備中国一宮。祭神は大吉備津彦命。四道将軍の将の一人である大吉備津彦命は、吉備氏の祖と言われている。別名を比古伊。対応するのは吉備津神社。岡山県岡山市北区吉備津にある神社。備中国一宮。祭神は'''大吉備津彦命'''。四道将軍の将の一人である大吉備津彦命は、吉備氏の祖と言われている。別名を比古伊'''佐勢理'''毘古命(ひこいさせりひこのみこと)という。記紀神話は他に吉備武彦という人物が吉備氏の祖だと述べている。吉備武彦の子に毘古命(ひこいさせりひこのみこと)という。記紀神話は他に'''吉備武彦'''という人物が吉備氏の祖だと述べている。吉備武彦の子に'''御友別'''[吉備臣祖]がいる。'''御友別'''[吉備臣祖]の兄弟として『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、浦凝別[苑臣祖](苑県に封)、'''鴨別'''[笠臣祖](波区芸県に封)、兄媛(応神天皇妃)がいる。子の中に'''弟彦[三野臣祖]'''(三野県に封)がいる。
* [[苑県主]]

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