創祀の年代等は不詳。『新抄格勅符抄』所収の大同元年(806年)の牒に神護景雲4年(770年)に神封1戸が充てられたことが見え、当時には祭祀が行われていたことがわかる。
創建当初は現鎮座地よりも更に奥まった山裾に鎮座し、豪雨による山崩れと参拝の便から現鎮座地へ遷されたとされる。ただし、年代も含めてそれを証する記録は残されていない<ref name="調査報告" />。鎮座地周辺には園部町口人(くちうど)の安谷古墳群を始めとする[[古墳]]が散在しているほか古銭出土地もあり、当地一帯が早くから開けた地であった事がうかがわれる。鎮座地周辺には園部町口人(くちうど)の安谷古墳群を始めとする古墳が散在しているほか古銭出土地もあり、当地一帯が早くから開けた地であった事がうかがわれる<ref name="神々" />。
[[仁寿]]2年([[852年]])、[[勅使]]が差遣されて[[奉幣]]がなされた仁寿2年(852年)、勅使が差遣されて奉幣がなされた<ref>『[[文徳天皇実録]]』同年11月甲辰(12日)条。『文徳天皇実録』同年11月甲辰(12日)条。</ref>。『[[延喜式神名帳]]』には「[[丹波国]][[船井郡]] 麻気神社」と記載され、[[名神大社]]に列している。。『延喜式神名帳』には「丹波国船井郡 麻気神社」と記載され、名神大社に列している。
また、[[延喜]]17年([[917年]])の文書また、延喜17年(917年)の文書<ref>立券文(土地の売買契約書)に付せられた[[天暦]]6年([[952年]])5月25日追記の保証人中。立券文(土地の売買契約書)に付せられた天暦6年(952年)5月25日追記の保証人中。</ref>中に、当神社の[[祝部]]である大宅という人物が見えている中に、当神社の祝部である大宅という人物が見えている<ref>延喜17年4月27日付「丹波国某郷長解」(『平安遺文』215)。</ref>。これは保証人として名を連ねるほどの有力者であったと思われ、神社としても[[平安時代]]における当地の有力社であった様子がうかがわれる。これは保証人として名を連ねるほどの有力者であったと思われ、神社としても平安時代における当地の有力社であった様子がうかがわれる<ref name="調査報告" />。しかしながら、[[宝暦|宝暦年間]](18世紀中頃)に祝融の禍に遭い古記録を焼失したといい、その後の沿革は詳らかでない。。しかしながら、宝暦年間(18世紀中頃)に祝融の禍に遭い古記録を焼失したといい、その後の沿革は詳らかでない。
[[九品寺 (南丹市)|九品寺]]の縁起によれば、[[白河天皇]]の皇子・[[覚行法親王]]が九品寺の中興[[開山 (仏教)|開山]]となった縁で[[承暦]]3年([[1079年]])に同寺への[[行幸]]があった。同寺の[[鎮守]]であった当社には「船井第一麻気大社」の勅額を下賜して神事祭礼を復興させたとたとされる<ref>[[明暦]]3年(1657)の『吉祥山縁起』、[[寛文]]2年(1662)の『九品寺縁起』。</ref>。この白河天皇の行幸関連は後世の附会と思われている<ref name="調査報告" />。しかしながら、[[長享]]2年([[1488年]])5月に翌年の当社の頭役を担当する九品寺の僧坊が定められ、半年後の同3年正月にも同様のことが行われており、これより以前に同寺の影響下にあったことはうかがわれる。[[応永]]31年([[1424年]])の文書<ref>「丹波国[[篠村八幡宮]]造営[[段銭]][[京済|京済分]][[注文]]」(醍醐寺文書)に「麻気社七[[町 (単位)|町]] 分銭五[[貫]]六百[[文 (通貨単位)|文]]」と見える。</ref>にある「麻気社」も当社を指し、これも九品寺の影響下にあった事を示す記録と思われる<ref name="図説2-6-2">『図説・園部の歴史』第2章第6節第2項。</ref>。しかしその後は次第に衰退したものとも思われている<ref name="調査報告" />。