=== 私的考察 ===
どうやら、「水牛を生け贄にする」という意味は、元は人間の生け贄を捧げていたものを水牛に置き換えたもののようだ。そして、おそらく先祖の誰かが亡くなって、きちんと祀ってもらえなかったために、祟る鬼(幽鬼)となっていたものを慰撫して、'''特に疫病に対する祟りを抑えてもらおう、そして子孫を守護してもらおう'''、という意味があったと思われる。ルア族の伝承から、この先祖が「、という意味があったと思われる。また、ミャオ族の伝承の中に、かすかではあるが、水牛を疫神に見立てて、'''疫神を黄泉の国に送ってしまおう'''、という思想が見える。 ルア族の伝承から、この先祖が「'''人肉を食べていた'''」事が分かる。また、ミャオ族の伝承から、この先祖が'''船に乗っていて、暴風雨で溺れ死んだ'''ことが分かる。これは、「大洪水」の神話を「'''[[伏羲]]と[[女媧]]が溺れ死んだ'''」として、その霊を慰撫するための祭祀と考えられていたのではないだろうか。管理人が考えるところの
* [[伏羲型神]]と[[吊された女神]]が溺れ死ぬか何かで非業の死を遂げ、死後の祭祀をきちんと行わないと病を起こしたり、子孫に良くないことを起こすため、本来なら人肉を捧げて供養するところ、これを人類の兄弟ともいえる大事な水牛を代わりに捧げることで彼らを慰撫し、子孫に災いを起こすのではなく、守護をしてもらおう、という概念
なのだと考える。供養を行わないと、先祖は疫神としての[[祝融型神]]へと変わって災疫神になってしまうのだ。
また、先祖を植物化する傾向が強くなると、一般的な豊穣を求める祭祀が、「'''先祖(植物)を生き返らせる祭祀'''」ともなり得ないだろうか。植物とは、先祖かもしれないが、人の生活の役に立つものでもある。穀物や野菜は食料になるし、木や竹は加工すれば建材や道具、楽器にもなる。そして消耗品でもあるので、植物は収穫しては消費し、殺して加工し、ゴミになったら捨てて、また新たな植物の育成と収穫を求める、とその繰り返しである。だから'''殺しても、常に生き返って再生してもらう必要があるのも植物'''なのだ。先祖のもたらす加護に植物の死と再生の円滑さを求め、かつ先祖を植物に見立てると、「'''先祖が死と再生を繰り返さなければならない'''」ということになる。これを求める祭祀にも水牛を捧げるのだろうか? それとも人をっささげるのか?」ということになる。これを求める祭祀にも水牛や人身御供を捧げる必要がある、ということにならないだろうか。 チャンヤンは結婚に際して、「死んだ先祖の象徴」ともいえる竹に相談を行っている。人が普通の状態では物言わぬ竹に変化しているのは、それはその人が死んでいる、ということの象徴ではないだろうか。チャンヤンが肉塊から発生させた人類は言葉を発することができない。それは人類がまだ「死者」の領域にいることを示しているように思う。彼らを「生者」の側に引っ張るには、別の命が必要とされる、と考えられたのかもしれない。それで「物言う竹」は「生きているもの」とみなされて、生け贄にされ燃やされてしまうのだろう。「'''人類のための犠牲'''」という名目で。 よって、水牛などを「生け贄にする」という意味は
それはともかく、メソポタミアから西では、先祖を拡張した神々にまで、このように「* 疫神に見立てて、これを殺して冥界に送る(厄払い)* 死したる先祖の供物(食物)にする(供養)* 新たな人類を誕生させるために'''神々(植物・先祖)が死と再生を繰り返さなければならない引き換える必要がある魂'''」という思想が発展したように思う。でも、この祭祀になにがしかの生け贄を捧げたとしても、動物や人間がそのままの姿で生き返ってくるわけではない。科学的には植物だって、種から生えたものは、その親の植物とは異なる個体なのだが、昔の人にはそのことは分からなかったのだろう。だから、生け贄にしたものが生き返ってこない以上、再生したものは何なのか? と思う。チャンヤンが水牛を生け贄にして生えてきたのが、('''先祖の竹間引き'''であるなら、生き返ってきたのは'''先祖'''ということになりはしないだろうか。生えてきたものが'''鬼のプーセという稲'''であったら、生き返ってきたのは'''鬼のプーセ'''なのではないのか。生えてきたものが'''ハーデースという小麦'''であれば、生き返ってきたのは'''ハーデース'''といえるのではないだろうか。そして、生えて来たのが'''蛾王という楓香樹'''であれば、生き返ってきたのは'''蛾王'''なのではないのか。こうして、いつの間にか、'''人身御供というものは、先祖を自分たちの都合の良いように再生させるための祭祀の道具'''、となっていないだろうか、先祖を植物になぞらえてしまったが故に、と思うのである。(的な発想))
そして、本当に蛾王は楓香樹で良いのか、[[蚩尤]]は楓の木で良いのか? となる。誰か他のものを'''無理矢理害虫と一体化する'''ことで、祟り神のような悪者に変換してはいないだろうか、と思うのだ。そもそも建木を立て管理するのは[[黄帝]]の役目ではなかったのか。何故、我らは人身御供を禁じた川の神である[[黄帝]]の変化した[[河伯]]に人身御供を捧げなければならないのだろう? それは'''川の神と人身御供を求める疫神を習合させた'''ものがいて、'''災害を起こす川の神に人身御供を捧げなければいけない'''、と無理矢理決めてしまったからではないのだろうか。チャンヤンの神話は、時代が下ると洋の東西に広がって、理論的に整合性のない奇怪な神話を各地に生み出していくように感じるのだ。があるように思う。
== まとめ ==