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分類について重要な記事
ジンの葬列
アラブ。民話。ジンの王が亡くなり、彼らが人間のように葬儀を行っていた、という話。ジンの葬儀に出くわしたから、不幸になったのか、幸運を得たのか、語った者のその後は明らかでない。ただ、ジンが人間のように暮らしているもの、と考えられていたことが分かる。
アラブ。民話。ジンの王が亡くなり、彼らが人間のように葬儀を行っていた、という話。ジンの葬儀に出くわしたから、不幸になったのか、幸運を得たのか、語った者のその後は明らかでない。ただ、ジンが人間のように暮らしているもの、と考えられていたことが分かる。
イナンナ
メソポタミア神話。シュメール神話(前4000年頃-前3100年頃)。イシュタルと同一視される。母はニンガル、父は月神ナンナ(シン)、姉はエレシュキガル。双子の弟はウトゥ(シャマシュ)。夫はドゥムジ(イシュタルの場合タンムーズ)。次女はニンシュブル。女神。星神。金星。八芒星。十六芒星。軍神。ギンバイカ。銀梅花。アカシア。ポプラ。葦。猫。ライオン。獅子。鳩。エンキからメーを授かる。アンからエアンナ神殿を譲り受けた。ギルガメシュに結婚を迫る。天の雄牛を解き放つ力がある。「nin-edin」(エデンの女主人)などの別名を持つ。フルップの樹の所有者。プックとミックを作る。冥界の木の実を食べ性の秘密を知る。叡智。農夫(エンキムドゥ)と羊飼いの間で迷い羊飼いを選ぶ。冥界に下り、ドゥムジを引き換えにして地上に再生する。季節の神話とされる。
イナンナと鳥女房神話、蛇神退治神話の関連性について→太陽女神について参照のこと
#養母としての女神 #吊された女神・複合型 #木の実 #楽器
メソポタミア神話。シュメール神話(前4000年頃-前3100年頃)。イシュタルと同一視される。母はニンガル、父は月神ナンナ(シン)、姉はエレシュキガル。双子の弟はウトゥ(シャマシュ)。夫はドゥムジ(イシュタルの場合タンムーズ)。次女はニンシュブル。女神。星神。金星。八芒星。十六芒星。軍神。ギンバイカ。銀梅花。アカシア。ポプラ。葦。猫。ライオン。獅子。鳩。エンキからメーを授かる。アンからエアンナ神殿を譲り受けた。ギルガメシュに結婚を迫る。天の雄牛を解き放つ力がある。「nin-edin」(エデンの女主人)などの別名を持つ。フルップの樹の所有者。プックとミックを作る。冥界の木の実を食べ性の秘密を知る。叡智。農夫(エンキムドゥ)と羊飼いの間で迷い羊飼いを選ぶ。冥界に下り、ドゥムジを引き換えにして地上に再生する。季節の神話とされる。
イナンナと鳥女房神話、蛇神退治神話の関連性について→太陽女神について参照のこと
#養母としての女神 #吊された女神・複合型 #木の実 #楽器
竜宮からきた赤い船
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 138-143p
「西鶴諸国咄」よりの出典。原題は「巻三 行末の宝船」である。諏訪の地元に、諏訪湖の底に竜宮城がある、という話は見たことがないが、余所ではこのような話が流布していたかもしれない、と思う。西鶴は江戸時代の人であるので、江戸時代的な発想が随所にあり、どこまでが江戸時代の脚色なのか、と思う。
粗筋は、諏訪湖の底に竜宮城があって、湖で溺れた男が「赤い船」に乗って戻ってきて、村の男衆を何人か連れて行ってしまったが、男衆は戻ってこなかった、という話。
湖で溺れた男は、要は「幽霊」であると思うので、幽霊があの世から戻ってきて、元の仲間を道連れに引き込んだ、というと「怪奇譚」のようにもなる。むしろ、中国の怪奇譚の影響を受けた和製怪奇譚なのでは? と思う。そして、諏訪湖ではなく、天竜川の河口の浜松に「赤い蛇女神」の伝承があるので、むしろ「竜宮」とか「赤い船」というのは、天竜川の「赤い蛇女神」に関連して、江戸時代的に作り替えられた話で、諏訪湖の話ではあっても、発生地は遠州(静岡)なのではないか、と思うわけですが。
基本的には、湖の'''赤い'''蛇女神に男の生贄を捧げた話だと思う。諏訪的には、これは多留姫でもあるし、ミシャグジ様で良いと思います。というか、縄文的にはミシャグジ様という名(かつ出産土器の女神)、賀茂的水神女神としては多留姫という名、日本神話的には天照大神、渡来神(かつ賀茂の祖神)としては阿加流比売神、しかし新羅に来るその前の名は? と問えば我らが「女媧娘娘」と繋がる「人身御供を求める蛇女神」であると思う。
しかも、「怠け者の男」が死んで「竜宮の王(冥王)の部下となった」という設定付きである。要するに、この「怠け者の男」こそが「饕餮」と言わざるを得ない。苗族にもこんな感じの伝承があったはず、と思う。
ということで、話の内容よりも、江戸時代に西鶴にこういう話を書かせる、その執念と信念こそに敬意を払いたい・・・けれども、人身御供は駄目ですよ。という話である。「赤い船」とは太陽神であった女媧娘娘の化身のことと思う。神紋に織物の女神である西王母の象徴の「梶の葉」、湖に女媧娘娘の化身である多留姫、と「二人の母神」を擁する上社であるが、そこに出雲の下照媛を加えて、「三位一体」の「太陽女神」を「母神」としているのだと思う。(下社はイザナミ=八坂刀売=焼き殺される母神一択といえる。)要は上社の形態は、尾張真清田と一致する。
まあ、でも、「諏訪の民話」とするには微妙な話である。ここまできっちりと神話的な整合性をとった話を作る事ができたのが西鶴その人自身であれば、素晴らしい作家であったと言うべきである。
#昔話 #長野県 #中信 #龍 #常世信仰
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 138-143p
「西鶴諸国咄」よりの出典。原題は「巻三 行末の宝船」である。諏訪の地元に、諏訪湖の底に竜宮城がある、という話は見たことがないが、余所ではこのような話が流布していたかもしれない、と思う。西鶴は江戸時代の人であるので、江戸時代的な発想が随所にあり、どこまでが江戸時代の脚色なのか、と思う。
粗筋は、諏訪湖の底に竜宮城があって、湖で溺れた男が「赤い船」に乗って戻ってきて、村の男衆を何人か連れて行ってしまったが、男衆は戻ってこなかった、という話。
湖で溺れた男は、要は「幽霊」であると思うので、幽霊があの世から戻ってきて、元の仲間を道連れに引き込んだ、というと「怪奇譚」のようにもなる。むしろ、中国の怪奇譚の影響を受けた和製怪奇譚なのでは? と思う。そして、諏訪湖ではなく、天竜川の河口の浜松に「赤い蛇女神」の伝承があるので、むしろ「竜宮」とか「赤い船」というのは、天竜川の「赤い蛇女神」に関連して、江戸時代的に作り替えられた話で、諏訪湖の話ではあっても、発生地は遠州(静岡)なのではないか、と思うわけですが。
基本的には、湖の'''赤い'''蛇女神に男の生贄を捧げた話だと思う。諏訪的には、これは多留姫でもあるし、ミシャグジ様で良いと思います。というか、縄文的にはミシャグジ様という名(かつ出産土器の女神)、賀茂的水神女神としては多留姫という名、日本神話的には天照大神、渡来神(かつ賀茂の祖神)としては阿加流比売神、しかし新羅に来るその前の名は? と問えば我らが「女媧娘娘」と繋がる「人身御供を求める蛇女神」であると思う。
しかも、「怠け者の男」が死んで「竜宮の王(冥王)の部下となった」という設定付きである。要するに、この「怠け者の男」こそが「饕餮」と言わざるを得ない。苗族にもこんな感じの伝承があったはず、と思う。
ということで、話の内容よりも、江戸時代に西鶴にこういう話を書かせる、その執念と信念こそに敬意を払いたい・・・けれども、人身御供は駄目ですよ。という話である。「赤い船」とは太陽神であった女媧娘娘の化身のことと思う。神紋に織物の女神である西王母の象徴の「梶の葉」、湖に女媧娘娘の化身である多留姫、と「二人の母神」を擁する上社であるが、そこに出雲の下照媛を加えて、「三位一体」の「太陽女神」を「母神」としているのだと思う。(下社はイザナミ=八坂刀売=焼き殺される母神一択といえる。)要は上社の形態は、尾張真清田と一致する。
まあ、でも、「諏訪の民話」とするには微妙な話である。ここまできっちりと神話的な整合性をとった話を作る事ができたのが西鶴その人自身であれば、素晴らしい作家であったと言うべきである。
#昔話 #長野県 #中信 #龍 #常世信仰
美女と野獣
「世界の民話2 南欧 ぎょうせい」 3-19p
有名な「美女と野獣」である。
大きく2つの要素からなっており、一つは「特定の娘(末娘)と野獣」の婚姻譚である。怪物退治の要素はない、あるいはほとんどない。野獣は娘の裏切りにあって死にかかるが、娘が助けることとなっている。娘を野獣から助ける英雄は登場しない。要は、「クピードーとプシュケー型」でも「エンリルとニンリル型」でも良いのだが、人身御供に対して肯定的な物語といえる。
妹に意地悪して(一応)罰せられる姉がいるのも「クピードーとプシュケー」的だが妹と野獣の婚姻を邪魔しようとしたから罰せられたのであって、罰せられた原因は「妬み」となっている。
野獣は金持ちであり「バラの花」の化身である。よって、植物神でもあり、樹木神でもある、といえる。折ってはいけない(殺してはいけない)樹木神を殺してしまったから、神を再生させるために娘の生贄が必要とされる、とそのような思想が崩れたもののように思われる。
娘が父親の身代わりになったりする自己犠牲の精神、神(野獣)の再生のモチーフはキリスト教をなぞらえたもののようにも思える。
参考:美女と野獣
#民話 #フランス #人身御供 #イナンナとエレシュキガル #クピードーとプシュケー #エンリルとニンリル #妬み型 #ゲシュティンアンナ型 #カトリック
「世界の民話2 南欧 ぎょうせい」 3-19p
有名な「美女と野獣」である。
大きく2つの要素からなっており、一つは「特定の娘(末娘)と野獣」の婚姻譚である。怪物退治の要素はない、あるいはほとんどない。野獣は娘の裏切りにあって死にかかるが、娘が助けることとなっている。娘を野獣から助ける英雄は登場しない。要は、「クピードーとプシュケー型」でも「エンリルとニンリル型」でも良いのだが、人身御供に対して肯定的な物語といえる。
妹に意地悪して(一応)罰せられる姉がいるのも「クピードーとプシュケー」的だが妹と野獣の婚姻を邪魔しようとしたから罰せられたのであって、罰せられた原因は「妬み」となっている。
野獣は金持ちであり「バラの花」の化身である。よって、植物神でもあり、樹木神でもある、といえる。折ってはいけない(殺してはいけない)樹木神を殺してしまったから、神を再生させるために娘の生贄が必要とされる、とそのような思想が崩れたもののように思われる。
娘が父親の身代わりになったりする自己犠牲の精神、神(野獣)の再生のモチーフはキリスト教をなぞらえたもののようにも思える。
参考:美女と野獣
#民話 #フランス #人身御供 #イナンナとエレシュキガル #クピードーとプシュケー #エンリルとニンリル #妬み型 #ゲシュティンアンナ型 #カトリック
汽車を止めた玄蕃之丞狐
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 130-136p
玄蕃之丞狐とは、塩尻宿から贄川宿辺りに住んでいた、といわれるいたずら好きの狐の親分のことであるらしい。しかし、その最後は人間と争って非業の死を遂げるらしい。狐がかつて信仰の対象であったことの名残と、非業の死を遂げた者を神格化する習慣などが相まった物語といえようか。
西欧におけるトロール等の物語と、「いたずら好きな半神的存在に対する信仰」、「それらに対する最終的な人間の勝利」という点で比較してみると面白いかもしれない、と思う。
いわゆる「炎黄闘争」が非常に長い時を経て崩れた形式の物語といえる。
参考文献:玄蕃之丞狐、長野県:歴史・観光・見所 より(最終閲覧日:22-09-06)
#昔話 #長野県 #中信 #狐 #非業の死
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 130-136p
玄蕃之丞狐とは、塩尻宿から贄川宿辺りに住んでいた、といわれるいたずら好きの狐の親分のことであるらしい。しかし、その最後は人間と争って非業の死を遂げるらしい。狐がかつて信仰の対象であったことの名残と、非業の死を遂げた者を神格化する習慣などが相まった物語といえようか。
西欧におけるトロール等の物語と、「いたずら好きな半神的存在に対する信仰」、「それらに対する最終的な人間の勝利」という点で比較してみると面白いかもしれない、と思う。
いわゆる「炎黄闘争」が非常に長い時を経て崩れた形式の物語といえる。
参考文献:玄蕃之丞狐、長野県:歴史・観光・見所 より(最終閲覧日:22-09-06)
#昔話 #長野県 #中信 #狐 #非業の死
ネコに変身したトロル
「フェアリーのおくりもの トマス・カイトリー」 32-34p
若いトロールと老いたトロールの女性を巡る争い譚、なのだが、若いトロールは何かをするわけではなく「時期を待っているだけ」であるので、その点は「ものぐさ太郎」的である。
「怪物退治譚」というよりは、もっと端的な「炎黄神話」の崩れであると思う。黄帝も、炎帝も中原の出身ではなく、古代中国の人々にとって「よそ者」であったとすれば、古代中国の人々にとって「炎黄の争い」も、このトロール達の争いのようなものとして、その目に写ったのではないだろうか。
「クヌレムレ」という名前のトロールが登場するが、私の考えでは、当然その起源は「熊」という言葉であると思う。
#民話 #デンマーク #トロール #猫 #ものぐさ太郎 #変身
「フェアリーのおくりもの トマス・カイトリー」 32-34p
若いトロールと老いたトロールの女性を巡る争い譚、なのだが、若いトロールは何かをするわけではなく「時期を待っているだけ」であるので、その点は「ものぐさ太郎」的である。
「怪物退治譚」というよりは、もっと端的な「炎黄神話」の崩れであると思う。黄帝も、炎帝も中原の出身ではなく、古代中国の人々にとって「よそ者」であったとすれば、古代中国の人々にとって「炎黄の争い」も、このトロール達の争いのようなものとして、その目に写ったのではないだろうか。
「クヌレムレ」という名前のトロールが登場するが、私の考えでは、当然その起源は「熊」という言葉であると思う。
#民話 #デンマーク #トロール #猫 #ものぐさ太郎 #変身
寝覚めの床の主
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 125p コラム
上松町の寝覚めの床に関する民話が簡単に紹介されている。
怪物退治譚なのだが、大筋は静岡県磐田市見附天神にある「猿神退治」と同じである。犬が猿神を退治するのではなくて、修行僧が猪を使ってオオサンショウウオの怪物を退治する、という話になっている。
磐田市では「白羽の矢」は豊受大神の化身と暗喩する神社もある。
それにしても、猪(豚)とはオーストロネシア語族にとっては、イモを発生させたり、怪物を退治したり、神話的に重要なアイテムなのだなあ、と思う。
木曽の話では狩人が行者に代わっているし、ヤマタノオロチの神話とも比べれば
狩人=行者=須佐之男=シヴァ(アメタ)=黄帝
猿神=オオサンショウウオ=ヤマタノオロチ=シヴァ(縄文系の神であるところの「獣の王」、こっちもアメタ)=須佐之男=饕餮
というスパイラルな構図が浮かんでくる。そもそも「猿神=狩人」で、この2つは「同じ物」であり、太陽女神に生贄を捧げる立場だったものが、女神から分かれた豊受大神をガツガツ食べるようになったのが日本の神話と言える。しかも、修験道って言ったら、なんでも須佐之男と習合させてしまうのが大好きな宗教のようであるし。仏教というよりは「修験道教」と言った方が良さそうな感じがする。というか、黄帝と饕餮を習合させちゃ駄目じゃん、という根源的な問題がある。
ということで、
見附では「加茂」という地名も近くにある上に、裸祭りなんかもやっていてハイヌウェレな感じである。天竜川の上流には諏訪大社の下社がある。
木曽川の河口では天津日子根というアジスキタカヒコネ?な須佐之男の息子神の神社で、夜中に騒ぐ祭りを行う。けっこう近くには津島とかあるし。善光寺の別院とか下社関連? と思われる宗教施設がある。
木曽って言ったら、御岳が有名だし、その辺りの神職は下社関連だったような? 全部じゃないかもしれないけどさあ、みたいな。
当の下社は「お船祭り」というかつては裸祭りをやっていた(今は服は着ているらしい)。これがまたハイヌウェレというよりは、「直に焼き畑農業じゃね? フレイザーのドンゴ族?」と言いたくなるような焼殺祭祀である。
どうも、中部地方で、サトイモとか植わっているところは、縄文系のハイヌウェレ的思考が強いところに、なんか加茂とか下社とか下社とか下社とかが、台密と組んで取り憑いてない? と、長野から見たら「地の果て」みたいに見える名古屋で呆然としてそう思った管理人である。(三重なんて関西じゃん? そもそも長野から日帰りで行く所じゃないし、と思う管理人でした-;。)
民話の詳しい内容:寝覚めの床の主
#昔話 #長野県 #中信 #サンショウウオ #行者 #怪物退治 #白羽の矢 #猪 #修験道
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 125p コラム
上松町の寝覚めの床に関する民話が簡単に紹介されている。
怪物退治譚なのだが、大筋は静岡県磐田市見附天神にある「猿神退治」と同じである。犬が猿神を退治するのではなくて、修行僧が猪を使ってオオサンショウウオの怪物を退治する、という話になっている。
磐田市では「白羽の矢」は豊受大神の化身と暗喩する神社もある。
それにしても、猪(豚)とはオーストロネシア語族にとっては、イモを発生させたり、怪物を退治したり、神話的に重要なアイテムなのだなあ、と思う。
木曽の話では狩人が行者に代わっているし、ヤマタノオロチの神話とも比べれば
狩人=行者=須佐之男=シヴァ(アメタ)=黄帝
猿神=オオサンショウウオ=ヤマタノオロチ=シヴァ(縄文系の神であるところの「獣の王」、こっちもアメタ)=須佐之男=饕餮
というスパイラルな構図が浮かんでくる。そもそも「猿神=狩人」で、この2つは「同じ物」であり、太陽女神に生贄を捧げる立場だったものが、女神から分かれた豊受大神をガツガツ食べるようになったのが日本の神話と言える。しかも、修験道って言ったら、なんでも須佐之男と習合させてしまうのが大好きな宗教のようであるし。仏教というよりは「修験道教」と言った方が良さそうな感じがする。というか、黄帝と饕餮を習合させちゃ駄目じゃん、という根源的な問題がある。
ということで、
見附では「加茂」という地名も近くにある上に、裸祭りなんかもやっていてハイヌウェレな感じである。天竜川の上流には諏訪大社の下社がある。
木曽川の河口では天津日子根というアジスキタカヒコネ?な須佐之男の息子神の神社で、夜中に騒ぐ祭りを行う。けっこう近くには津島とかあるし。善光寺の別院とか下社関連? と思われる宗教施設がある。
木曽って言ったら、御岳が有名だし、その辺りの神職は下社関連だったような? 全部じゃないかもしれないけどさあ、みたいな。
当の下社は「お船祭り」というかつては裸祭りをやっていた(今は服は着ているらしい)。これがまたハイヌウェレというよりは、「直に焼き畑農業じゃね? フレイザーのドンゴ族?」と言いたくなるような焼殺祭祀である。
どうも、中部地方で、サトイモとか植わっているところは、縄文系のハイヌウェレ的思考が強いところに、なんか加茂とか下社とか下社とか下社とかが、台密と組んで取り憑いてない? と、長野から見たら「地の果て」みたいに見える名古屋で呆然としてそう思った管理人である。(三重なんて関西じゃん? そもそも長野から日帰りで行く所じゃないし、と思う管理人でした-;。)
民話の詳しい内容:寝覚めの床の主
#昔話 #長野県 #中信 #サンショウウオ #行者 #怪物退治 #白羽の矢 #猪 #修験道
エーベルトフト近くの女エルフ
「フェアリーのおくりもの トマス・カイトリー」 18-19p
エルフに誘惑されて正気を失う話。
後半はエルフに誘惑された若者を再び人間界に戻す話であるが、肉を食べさせると良いらしい。元はさらわれた若者を取り戻すために肉(牛や豚といった獣)を生贄として捧げた話が崩れたものか。死んだ若者(神)に対して生贄を捧げたら、イモではなくて当人が戻ってきたようである。
デンマークではエルフとの性的接触で、正気が失われると考えていたのだろうか。
正気を失う点については「底革のハンス」、「トロルと踊った少女」が類話である。特に「底革のハンス」とは、男性が女性のエルフに誘惑される、という点で類似性が高いと考える。
#民話 #デンマーク #妖精 #狂気 #誘惑
「フェアリーのおくりもの トマス・カイトリー」 18-19p
エルフに誘惑されて正気を失う話。
後半はエルフに誘惑された若者を再び人間界に戻す話であるが、肉を食べさせると良いらしい。元はさらわれた若者を取り戻すために肉(牛や豚といった獣)を生贄として捧げた話が崩れたものか。死んだ若者(神)に対して生贄を捧げたら、イモではなくて当人が戻ってきたようである。
デンマークではエルフとの性的接触で、正気が失われると考えていたのだろうか。
正気を失う点については「底革のハンス」、「トロルと踊った少女」が類話である。特に「底革のハンス」とは、男性が女性のエルフに誘惑される、という点で類似性が高いと考える。
#民話 #デンマーク #妖精 #狂気 #誘惑
尾科の文吾
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 106-109p
飯田市の伝説である。文吾という人物は実在だったらしい。
岩に「へそ」の跡がついたのは、本来は「睾丸」の跡だったそうです。南信にはかつての磐座信仰が男根信仰に移行した例があるのか? と思う。
怪力と食欲が関連する伝承もあるらしい。
参考:【神社・巨石・伝承】尾科諏訪神社の文吾岩(金玉岩)@長野県飯田市龍江 、日々平穏(最終閲覧日:22-07-16)
#昔話 #長野県 #南信 #怪力
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 106-109p
飯田市の伝説である。文吾という人物は実在だったらしい。
岩に「へそ」の跡がついたのは、本来は「睾丸」の跡だったそうです。南信にはかつての磐座信仰が男根信仰に移行した例があるのか? と思う。
怪力と食欲が関連する伝承もあるらしい。
参考:【神社・巨石・伝承】尾科諏訪神社の文吾岩(金玉岩)@長野県飯田市龍江 、日々平穏(最終閲覧日:22-07-16)
#昔話 #長野県 #南信 #怪力
竜王権現
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 81p、コラム
筑北村差切峡の竜神の話。竜神は『降り続く長雨で、修那羅にあった大きな池が崩れた際、主の大蛇も流されて、差切峡の「ドの渕(ぶち)」に住み着いた。(「差切峡の大蛇伝説と竜王権現様祭り 」)より』のだが、猟師が鳥を撃つのを邪魔したため、猟師が竜神を殺したところ、祟りが生じたため、仙人が供養というか調伏した、という話である。
龍と鳥が一体のものである、というごく古いオーストロネシア語族の「世界樹」の概念の片鱗が残されている物語。竜神を殺した猟師はさしづめ羿といえよう。羿が悪しき三足烏や河伯を倒したところで、世の中がそれで全てうまくいくとは限らなくて、人が何もしなくても様々な天災は起こり得る。それを「祟り」としてシャーマン(本物語では「仙人」)でなければ収集できない、としてしまえば、神職やシャーマンの地位にある者は、永遠に「唯一祟りを鎮める者」として人々の上に君臨できるのではなかろうか。シャーマンが「神を生贄に捧げなければ、戦争は止まらない(止めない)、小麦も手に入らない(入れさせない)」と言い出すようなことがもしあれば、祟っている諸悪の根源はシャーマン自身ともいえるのではなかろうか、とふと想像したりするわけです。
本物語は仙人の祈祷が重要な要素であるため、修験道の宣伝的な意味があると思う。また、本物語の竜神は鳥との一体的な立場が強く、水神女神とする要素が乏しいため、中国的な「世界樹」の概念の方が起源として近い物語と感じる。誰が持ち来たったものなのか、興味深く感じます。
参考サイト:差切峡の大蛇伝説と竜王権現様祭り
#昔話 #長野県 #北信 #竜 #龍 #仙人 #祟り #調伏 #鳥
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 81p、コラム
筑北村差切峡の竜神の話。竜神は『降り続く長雨で、修那羅にあった大きな池が崩れた際、主の大蛇も流されて、差切峡の「ドの渕(ぶち)」に住み着いた。(「差切峡の大蛇伝説と竜王権現様祭り 」)より』のだが、猟師が鳥を撃つのを邪魔したため、猟師が竜神を殺したところ、祟りが生じたため、仙人が供養というか調伏した、という話である。
龍と鳥が一体のものである、というごく古いオーストロネシア語族の「世界樹」の概念の片鱗が残されている物語。竜神を殺した猟師はさしづめ羿といえよう。羿が悪しき三足烏や河伯を倒したところで、世の中がそれで全てうまくいくとは限らなくて、人が何もしなくても様々な天災は起こり得る。それを「祟り」としてシャーマン(本物語では「仙人」)でなければ収集できない、としてしまえば、神職やシャーマンの地位にある者は、永遠に「唯一祟りを鎮める者」として人々の上に君臨できるのではなかろうか。シャーマンが「神を生贄に捧げなければ、戦争は止まらない(止めない)、小麦も手に入らない(入れさせない)」と言い出すようなことがもしあれば、祟っている諸悪の根源はシャーマン自身ともいえるのではなかろうか、とふと想像したりするわけです。
本物語は仙人の祈祷が重要な要素であるため、修験道の宣伝的な意味があると思う。また、本物語の竜神は鳥との一体的な立場が強く、水神女神とする要素が乏しいため、中国的な「世界樹」の概念の方が起源として近い物語と感じる。誰が持ち来たったものなのか、興味深く感じます。
参考サイト:差切峡の大蛇伝説と竜王権現様祭り
#昔話 #長野県 #北信 #竜 #龍 #仙人 #祟り #調伏 #鳥
泉小太郎
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 70-80p
「新長野のむかし話」編について。これは元の話からかなり改変がされている、と感じるが私が知る限り最悪の改変だと思う。
1.伝説にまつわる地名が記載されていない点(犀川、松本平など)
2.犀竜が悪いことをして罰を受けて竜にされてしまっている点
3.罰を受けた原因は、犀竜自身というよりも社会的な問題なのだが、なんでそれを弱者である犀竜が一番泥を被って犠牲にならなければならないのだろうか。現代的に、弱者を搾取することを正当化する思想に繋がらないだろうか。
4.小太郎が自らの出自に引け目を感じている点。読者である子供に、出自等で他人と違うことは「それだけで悪いことである」と思わせることにならないだろうか。現代的な教育という観点から多様性の尊重と平等や公平という精神を損なう物語とならないだろうか。
何より、犀竜自身は祀られている神社を持たない、といえども、かつての水内郡(現在の長野市)の犀川流域から広い範囲で九頭竜女神が水神として祀られていることを併せ考えれば、犀竜とは九頭竜女神のことである、と容易に気がつけるはず。そんなことも分からない奴がこの物語に手を出すんじゃねーよ、水内郡の伝統と文化に対する侮辱だ! と正直思います。(ま、元の話も竜蛇女神に自己犠牲を求める話で、個人的には好きではないのですが。)
同じ「日本標準」出版でも「長野の伝説」に収録されている方が原話に近いと思うので、いつか紹介できれば、と思います。犀川には他に安曇族の神の開拓神話もあるのですが。開拓神をないがしろにしてどうなってるのか、という「現実の歴史」もいつか紹介できれば、と思います。
#昔話 #長野県 #北信 #竜 #開拓神 #女神
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 70-80p
「新長野のむかし話」編について。これは元の話からかなり改変がされている、と感じるが私が知る限り最悪の改変だと思う。
1.伝説にまつわる地名が記載されていない点(犀川、松本平など)
2.犀竜が悪いことをして罰を受けて竜にされてしまっている点
3.罰を受けた原因は、犀竜自身というよりも社会的な問題なのだが、なんでそれを弱者である犀竜が一番泥を被って犠牲にならなければならないのだろうか。現代的に、弱者を搾取することを正当化する思想に繋がらないだろうか。
4.小太郎が自らの出自に引け目を感じている点。読者である子供に、出自等で他人と違うことは「それだけで悪いことである」と思わせることにならないだろうか。現代的な教育という観点から多様性の尊重と平等や公平という精神を損なう物語とならないだろうか。
何より、犀竜自身は祀られている神社を持たない、といえども、かつての水内郡(現在の長野市)の犀川流域から広い範囲で九頭竜女神が水神として祀られていることを併せ考えれば、犀竜とは九頭竜女神のことである、と容易に気がつけるはず。そんなことも分からない奴がこの物語に手を出すんじゃねーよ、水内郡の伝統と文化に対する侮辱だ! と正直思います。(ま、元の話も竜蛇女神に自己犠牲を求める話で、個人的には好きではないのですが。)
同じ「日本標準」出版でも「長野の伝説」に収録されている方が原話に近いと思うので、いつか紹介できれば、と思います。犀川には他に安曇族の神の開拓神話もあるのですが。開拓神をないがしろにしてどうなってるのか、という「現実の歴史」もいつか紹介できれば、と思います。
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