クシュフと私
原文の本文数が4行しかないという量の少なさのため、比較的早く仕上げることができたと思います。古代メソポタミア(特にシュメール)では、とても重要な神であったエンキ(キエン)であったのに、ミン神が農業の豊穣の神から「労働者の神」へと変貌すると、次第にその地位が低下傾向になる「月神の群」が生じてくるわけです。なぜなら、古代社会でも「貧しい人がよりきつい労働力となって働かなければならない」点は現代とあまり変わらないからです。でも、ヒッタイト時代の神は、

貧しい人の神

というほど、その地位が低下して、時には軽蔑の対象とされるほどに嫌な変貌は遂げておらず、良いものを作り出すために誇りを持って働く職人や労働者の神として、まだ高い地位を誇っているように感じます(壁画の中でも男神の中ではテシュブの次に描かれています)。

ヒッタイトの月神クシュフは、このように「過渡期」の神として重要なのだと思われます。頑張って紹介できてうれしく思います。そして、この神を知れば、

「労働者こそが神」

という思想の源流が、この神と更にその古くはミン神にまで遡ることも分かるわけです。そう、これは「無神論」な思想などではなく、「月神信仰」な思想なのです。しかも、ローマ時代に入ると

「下層階級の月神信仰の神」

というローマの神々の階級社会を反映した神となるのです。下層階級の肉体労働者の神、奴隷の神。2000年ほど前に、ローマでこのような階級に野火のように広まった神があります。この「神」は最初はおそらく「自分達の神はあなた方の神と同じものです。搾取されている人々よ。」という具合に入り込んだのだと思うのです。そして「自分達こそが月の神の代理人なのだから、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ」と説いて歩いたのだと思うのです。何故なら、当時は「王権者こそが神の代理人であり、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ」と考えられており、それこそが「神の愛」でした。だから、人々は「好き勝手に人を殺す権利を持つ者が神の代理人であり、それが神の愛である。」と言われても全く違和感を持たなかったと思われます。要するに、貧しい人々の中にこうやってはびこったものを「原始キリスト教」といいます。

そして2000年後、

「労働者こそが神である」

という思想が突如登場して、ヨーロッパ社会に革命の嵐が起こります。労働力は確かに社会にとって貴重なものなのかもしれません。でも、だからといって支配者になって、それ以外の階級の人々の上に君臨し、好き勝手に生殺与奪の権利を持っているというはずはないのです。それでは、彼らはかつての専制君主にとってかわっただけの存在でしかなく、働くことを誇りに思い、労働者もそうでない人も含めて、人々全体の生活環境を良くしようという意志は無いように思われます。それどころか、実際には労働者ではなくても「我こそは労働者である」と述べさえすれば、誰でも「我こそは神である」と言って、好き勝手に人を殺せるようになる、ということになれば、それは「労働者主義」というよりも「労働者という言葉を借りた専制君主主義」というべきなのです。「原始キリスト教」は「貧しい労働者の神である」と説いて、暴力と弾圧を肯定した結果、しまいにはローマの国教にまで成り上がりました。そして、2000年の後には「貧しい労働者こそが神である」と説いて、暴力と弾圧を肯定した国家が生まれるようになったのです。それを「共産主義国家」というのではないでしょうか。共産主義というのは、宗教には否定的だと言われます。しかし、古代の人々が宗教や神に名を借りて、人々を強圧的に支配しようとしたのであれば、「共産主義」や「労働者」という言葉を借りて同じことをしようとするのも「同じ思想」といえます。古代ローマが「原始キリスト教」の名の下に人々を支配しようとした精神と、共産主義国家が「労働者」という言葉の下に人々を支配しようとしている精神は「同じ」なのです。そして、古代世界においては、ローマの「原始キリスト教」の神も「労働者の神」も「同じもの」だったのです。要するに、現代の「労働者信仰」は古代における「原始キリスト教」の焼き直しに過ぎないともいえる。

いったい誰が

労働者こそが神であり、あらゆる人々の生殺与奪の権利を好き勝手に持つ

などという思想を作り出したのでしょうか。可哀想なミン神、可哀想なクシュフ。彼らは社会構造に激しい階級制などはなく、みながほぼ同じように働いていた時代に、人々が農業の豊穣を求める神であったからこそ敬われたのです。そうして生まれた彼らの高い地位を、人殺しのために利用し、更に「彼らの真の民」と言うべき農業従事者を弾圧して滅し尽くそうとするものも世の中にはいるように思います。何故なら、農業の豊穣を大切にする文化は、けして「月神」とはそのような凶悪なものではない、と示していますし、原始キリスト教の神へと変化した凶悪な「父なるコロン・バチカン」は、古き農業の豊穣神の歪んだ焼き直しに過ぎない、とそれは調べればすぐに分かることだからです。

私はただ、偽りのねじ曲げられた月神の姿ではなく、本来のあるがままの彼らの姿を探していきたいと願っているのです。

Posted by bellis 21:00 | 神話::ヒッタイト神話 | comments (x) | trackback (x)