「鏡の中の鏡」
-- 2014-01-30 Thursday
文学ついでに、「ミヒャエル・エンデ」について書きたいと思います。エンデといえば、「はてしない物語」とか「モモ」といった、児童文学の人というイメージが強いのですが、大人向けのファンタジー小説も書いているわけで、「鏡の中の鏡」はその内の1冊といえます。(彼は元々演劇畑の人であったので、戯曲も実は書いています。でも、日本語版wikipediaには「ゴッゴローリ伝説」のことが書いてないようなーー;。)
そして、「はてしない物語」も、「虚無からの再生」という、若干ひっかかるテーマでの物語なわけですが、それはまあおいておいて、「鏡の中の鏡」について書いてみたいと思うわけです。この作品自体は短編がいくつも連なっていて、次の作品はどこか前の作品に似ていて、それを投影しているけれども、内容は異なっていて、で、最後の作品になるとまた最初に繋がる、とそういう構成になっているわけです。
要するに、次の作品は、前の作品を投影する「鏡」だけれども、その像はどんどん歪んでいって、大きく形を変えていき、しまいにまた元に戻ってしまう、というわけで、それがタイトルに現れているのだと思うのです。
神話の世界もそれにちょっとは似ているわけで、メソポタミアの神話は、ヒッタイトやギリシャの神話、ペルシャやインドの神話、エジプトの神話に、ユダヤ教神話、そしてキリスト教神話、というように、それらのいずれにも似ている内容はあるけれども、でも、やっぱりギリシャの神話はギリシャ神話らしい内容だし、エジプトの神話はエジプト神話らしいし、やはりメソポタミアの神話とは違う部分もある、とそういうことになるわけです。
でも、最近思うことですが、エンデの「鏡」は大きく歪んでいる鏡ですけれども、神話世界の「鏡」というのは、よくよく内容を知れば、本質的にはそれほど歪んでいないものなのだな、と思うわけです。例えば、メソポタミアにおける黄泉の太陽神ネルガルは、「冥界の神」としての性質が強いのですが、一方ギリシャ神話のアポローンは輝かしい太陽神として描かれますので、表面だけみれば、その性質は大きく歪んでいるように見えます。だけど、アポローンの聖獣は
ネズミ
なわけで、ネズミはペストを起こす動物ですから、その1点だけで、アポローンは、
ペストを起こす神であり、鎮める神であった
すなわち
メソポタミアのネルガルと同じ神であった
と理解できるわけです。一見して性質が大きく変わっているように見えても、本質(アポローンの場合は、疫神である太陽神である、ということ)は、なかなか消せないものであるのだな、とそう思うわけ。
エンデは『ハーメルンの死の舞踏』という作品も書いていますが、そもそも
「ハーメルンの笛吹男」
というのは何者なのであろうか、と思うわけです。聖書によると、「笛を吹く」というのは、葬儀に関係のあることのようです。しかも、笛吹男は
ネズミ
を自在に操っています。そして、彼は自分に従順ではなく、自分を利用しようとした街の人々に対して、
次代を継ぐ子供達を奪い去る
ことで報復します。子供を奪われるということは、自分の命を次の世代に受け継げなくなるということで、まあ、
ご当人は死んでいないとしても、死んだも同然
の行為といえなくもありません。てことは、史実はともかくとして、「笛吹」というのは、
「葬儀に関係があって、ネズミを操れる存在」
ということから、神話的には、まさに
アポローン
ということになるわけです。で、そこに
従順でないものには死に値する罰を与えて
います。しかもキリスト教にとっては、
幼子こそが天国に入るに値するもの
なわけです。嘘つきで、神を欺こうとする大人ではなくて。
というわけで、あくまでも神話的な、「物語構成」の点からみると、「ハーメルンの笛吹」とは、
死に神であり、ネズミの神であり、自分に従順でない者に罰を与える神であり、幼子を自分の国に連れて行く神
であるわけです。要するにそれを
イエス・キリスト
という。これは、ヨーロッパの人たちが、「神」というものをどのようなものと考えていたのかを知るための、伝承とみなせると思うわけです。でも、「笛吹」を「イエス」として映し出す
鏡
があったとしたら、それは歪んでいる鏡なのですか? それとも、歪んでいない鏡なのですか? とそうなるわけ。
エンデの『ハーメルンの死の舞踏』において、笛吹は「救世主」として描かれ、最後に
死ぬ
わけです。そこに投影されている姿は、単なる笛吹の姿ではないわけです。彼の
「笛吹」
は、次の世代をになう子供達に笛を託します。イエスの託した笛は、今もどこかで誰かが吹いているのでしょうか? だとしたら、エンデはいったいどのような場面で、子供達がその笛を吹くことを期待しているのだろう? とそう思うわけです。
エンデの憎んだ貨幣経済の世界を、まさに作者の名の通りに
「終了」
させるために吹いて欲しかったのですか? でも、バチカンは銀行とか持っているような? となるわけですね。要するに、貨幣経済の弊害を憎むエンデが、貨幣経済をこよなく愛している子供達に笛を渡してどうするのですか?
みたいな(苦笑)。どうも、エンデの「ハーメルン」を解釈する鏡は、そこのところで
大きく歪んでいる
ように見えるわけです。何故彼の鏡はそのように歪んでしまったのでしょうか? 彼のもう一つの作品である「鏡の中の鏡」の「鏡」のように? とそういうことになるわけです。
というか、エンデって「イエズス会」関係者なのですね? みたいな。 ってことは明日はデュマなのか。まあ、それも宿命ということでーー;。
そして、「はてしない物語」も、「虚無からの再生」という、若干ひっかかるテーマでの物語なわけですが、それはまあおいておいて、「鏡の中の鏡」について書いてみたいと思うわけです。この作品自体は短編がいくつも連なっていて、次の作品はどこか前の作品に似ていて、それを投影しているけれども、内容は異なっていて、で、最後の作品になるとまた最初に繋がる、とそういう構成になっているわけです。
要するに、次の作品は、前の作品を投影する「鏡」だけれども、その像はどんどん歪んでいって、大きく形を変えていき、しまいにまた元に戻ってしまう、というわけで、それがタイトルに現れているのだと思うのです。
神話の世界もそれにちょっとは似ているわけで、メソポタミアの神話は、ヒッタイトやギリシャの神話、ペルシャやインドの神話、エジプトの神話に、ユダヤ教神話、そしてキリスト教神話、というように、それらのいずれにも似ている内容はあるけれども、でも、やっぱりギリシャの神話はギリシャ神話らしい内容だし、エジプトの神話はエジプト神話らしいし、やはりメソポタミアの神話とは違う部分もある、とそういうことになるわけです。
でも、最近思うことですが、エンデの「鏡」は大きく歪んでいる鏡ですけれども、神話世界の「鏡」というのは、よくよく内容を知れば、本質的にはそれほど歪んでいないものなのだな、と思うわけです。例えば、メソポタミアにおける黄泉の太陽神ネルガルは、「冥界の神」としての性質が強いのですが、一方ギリシャ神話のアポローンは輝かしい太陽神として描かれますので、表面だけみれば、その性質は大きく歪んでいるように見えます。だけど、アポローンの聖獣は
ネズミ
なわけで、ネズミはペストを起こす動物ですから、その1点だけで、アポローンは、
ペストを起こす神であり、鎮める神であった
すなわち
メソポタミアのネルガルと同じ神であった
と理解できるわけです。一見して性質が大きく変わっているように見えても、本質(アポローンの場合は、疫神である太陽神である、ということ)は、なかなか消せないものであるのだな、とそう思うわけ。
エンデは『ハーメルンの死の舞踏』という作品も書いていますが、そもそも
「ハーメルンの笛吹男」
というのは何者なのであろうか、と思うわけです。聖書によると、「笛を吹く」というのは、葬儀に関係のあることのようです。しかも、笛吹男は
ネズミ
を自在に操っています。そして、彼は自分に従順ではなく、自分を利用しようとした街の人々に対して、
次代を継ぐ子供達を奪い去る
ことで報復します。子供を奪われるということは、自分の命を次の世代に受け継げなくなるということで、まあ、
ご当人は死んでいないとしても、死んだも同然
の行為といえなくもありません。てことは、史実はともかくとして、「笛吹」というのは、
「葬儀に関係があって、ネズミを操れる存在」
ということから、神話的には、まさに
アポローン
ということになるわけです。で、そこに
従順でないものには死に値する罰を与えて
います。しかもキリスト教にとっては、
幼子こそが天国に入るに値するもの
なわけです。嘘つきで、神を欺こうとする大人ではなくて。
というわけで、あくまでも神話的な、「物語構成」の点からみると、「ハーメルンの笛吹」とは、
死に神であり、ネズミの神であり、自分に従順でない者に罰を与える神であり、幼子を自分の国に連れて行く神
であるわけです。要するにそれを
イエス・キリスト
という。これは、ヨーロッパの人たちが、「神」というものをどのようなものと考えていたのかを知るための、伝承とみなせると思うわけです。でも、「笛吹」を「イエス」として映し出す
鏡
があったとしたら、それは歪んでいる鏡なのですか? それとも、歪んでいない鏡なのですか? とそうなるわけ。
エンデの『ハーメルンの死の舞踏』において、笛吹は「救世主」として描かれ、最後に
死ぬ
わけです。そこに投影されている姿は、単なる笛吹の姿ではないわけです。彼の
「笛吹」
は、次の世代をになう子供達に笛を託します。イエスの託した笛は、今もどこかで誰かが吹いているのでしょうか? だとしたら、エンデはいったいどのような場面で、子供達がその笛を吹くことを期待しているのだろう? とそう思うわけです。
エンデの憎んだ貨幣経済の世界を、まさに作者の名の通りに
「終了」
させるために吹いて欲しかったのですか? でも、バチカンは銀行とか持っているような? となるわけですね。要するに、貨幣経済の弊害を憎むエンデが、貨幣経済をこよなく愛している子供達に笛を渡してどうするのですか?
みたいな(苦笑)。どうも、エンデの「ハーメルン」を解釈する鏡は、そこのところで
大きく歪んでいる
ように見えるわけです。何故彼の鏡はそのように歪んでしまったのでしょうか? 彼のもう一つの作品である「鏡の中の鏡」の「鏡」のように? とそういうことになるわけです。
というか、エンデって「イエズス会」関係者なのですね? みたいな。 ってことは明日はデュマなのか。まあ、それも宿命ということでーー;。