鈴鹿山の立烏帽子に関する最古の記録は平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』で、「コノ世ニモ ナラサカノカナツフテ、'''スゝカ山ノ タチエホウシ''' ナト申物侍ケリ、ヒタカノ禅師海之羊ミナト申ケルヌスヒトヽモ、イツレカツヒニヨクテ侍ル、手キラレクヒキラレ、ヒトヤニヰテカナシキメヲノミコソハミナミル事ニテ侍メレ、」とある。ここでは奈良坂<ref group="注">奈良と南山城の境をなす平城山を越える坂道</ref>の[[かなつぶて]]と同じく鈴鹿山の立烏帽子という盗賊が処刑されたことを記している<ref group="原">一巻本『宝物集』</ref><ref>阿部, 2004, pages89-91</ref>。
この立烏帽子について、[[鎌倉時代]]初期の[[承久の乱]]([[1221年]])前後に成立したとみられる『[[保元物語]]』では、伊賀国住人[[山田是行|山田小三郎是行]]が、祖父・[[山田行秀|行秀]]がこの立烏帽子について、鎌倉時代初期の承久の乱(1221年)前後に成立したとみられる『保元物語』では、伊賀国住人山田小三郎是行が、祖父・行秀が'''立烏帽子'''を捕縛して天皇に献上したと名乗りをあげている{{refnest|<ref group="原|name=">半井本『保元物語』中巻「白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事」|半井本『保元物語』中巻「白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事」}}</ref><ref>[[坂詰力治]]・[[大村達郎]]・[[関明子]]・[[池原陽斉編]]『半井本 坂詰力治・大村達郎・関明子・池原陽斉編『半井本 保元物語 本文・校異・訓釈編』(笠間書院、2010年)</ref>{{Sfn|<ref>阿部|, 2004|pages=89, pages89-91}}</ref>。
[[御成敗式目]][[追加法]]では、[[延応]]元年7月26日(ユリウス暦[[1239年]]8月26日)付で鈴鹿山と[[大江山]]の盗賊について、近辺の地頭が責任者として鎮圧させるよう伝達されている{{refnest|group=原|name=御成敗式目追加法延応元年七月廿六日付「鈴鹿山并大江山悪賊事」|御成敗式目追加法「関東御教書」延応元年七月廿六日付「鈴鹿山并大江山悪賊事」}}。