== 概説 ==
古代の帝のひとりである[[禹]](う)が天下の治水を進めていた時代に現われた水にまつわる怪物で、[[猿]](猿猱)のようなすがたをしており、頭は白く体は青く、首を100尺も伸ばすことができ、ちからは[[ゾウ|象]]の大群よりも強く、動作も非常に敏捷であったという。何度も禹王の臣下がこれを鎮めようとしたが失敗、やっと庚辰(こうしん)によって、大索(太くて強い縄)と金鈴をつけられ亀山(きざん)に封じられたとされる(猿猱)のようなすがたをしており、頭は白く体は青く、首を100尺も伸ばすことができ、ちからは象の大群よりも強く、動作も非常に敏捷であったという。何度も禹王の臣下がこれを鎮めようとしたが失敗、やっと庚辰(こうしん)によって、大索(太くて強い縄)と金鈴をつけられ亀山(きざん)に封じられたとされる<ref> [[袁珂]] 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、[[青土社]]、[[1993年]] 344訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 344-346頁</ref><ref name="kappa" />。
[[禹]]による無支祁退治の記録は『[[太平広記]]』に収められた説話(巻467「李湯」)に登場しており、[[唐]]の時代に楚州の知事であった李湯(りとう)が水中から引きあげた巨大な猿の妖怪の話を補うかたちで示されている。それによると禹による無支祁退治の記録は『古岳瀆経』「堯九年,無支祁為孽, による無支祁退治の記録は『太平広記』に収められた説話(巻467「李湯」)に登場しており、唐の時代に楚州の知事であった李湯(りとう)が水中から引きあげた巨大な猿の妖怪の話を補うかたちで示されている。それによると禹による無支祁退治の記録は『古岳瀆経』「堯九年,無支祁為孽, [[応竜]]駆之淮陽亀山足下」というぼろぼろの古文書にあったものとされており、これが示されることで李湯の話(『古岳瀆経』の見つかる話は李湯の話から48年後の[[元和 (唐)|元和]]8年であるとされる)に登場した正体不明の大猿が「無支祁」であったのであろう、ということになっている駆之淮陽亀山足下」というぼろぼろの古文書にあったものとされており、これが示されることで李湯の話(『古岳瀆経』の見つかる話は李湯の話から48年後の元和8年であるとされる)に登場した正体不明の大猿が「無支祁」であったのであろう、ということになっている<ref name="kappa" />。[[宋 (王朝)|宋]]の時代からよく流布されるようになり[[戯曲]]などへの利用によって人々の知るところとなった。宋の時代からよく流布されるようになり戯曲などへの利用によって人々の知るところとなった<ref> [[袁珂]] 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、[[青土社]]、[[1993年]] 444頁袁珂著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 444頁</ref>。
人々に害をなしていた「巫支祁」という存在が禹によって封じられたという文言が『[[山海経]]』の引用であるとして『輟耕録』や『国史補』にあるのだが、現行のかたちの『山海経』には該当文は登場せず<ref name="kappa">[[石田英一郎]] 『新版 河童駒引考』 (『石田英一郎全集』5 [[筑摩書房]] 1970年 159-162頁)</ref>、『古岳瀆経』にあったとされる話以前の古いかたちは厳密には分からない部分が多い。