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=== 近世 ===
江戸時代に入ると、伊勢神宮の御師の活動がさらに活発化した<ref>{{Cite web |title=伊勢神宮の歴史・文化|url=, https://www.isejingu.or.jp/about/history/ |publisher=, 伊勢神宮 |accessdate=, 2021-05-06}}</ref>ことや、近世期に全国の神社を管轄した[[吉田家]]が天照大神・[[八幡神]]・[[春日神]]の三柱の神徳を讃える[[三社託宣]ことや、近世期に全国の神社を管轄した吉田家が天照大神・八幡神・春日神の三柱の神徳を讃える三社託宣]を庶民に拡散させていった<ref name="國學院大學日本文化研究所編「三社託宣」『神道事典』弘文堂(1999)399頁">國學院大學日本文化研究所編「三社託宣」『神道事典』弘文堂(1999)399頁</ref>ことなどから、天照大神への信仰がさらに庶民階層に広がり、伊勢神宮の神徳を讃える風流踊りである「伊勢踊り」が流行し<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)136-140頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)136-140頁</ref>、田植え唄などにも天照大神が唄われるようになった<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)187-189頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)187-189頁</ref>。また、自宅の神棚に天照大御神の神体として[[神宮大麻|御祓]]を祭ることが盛んになり、江戸時代にはその頒布率は全戸数の9割を占めるまでに至った。また、自宅の神棚に天照大御神の神体として御祓を祭ることが盛んになり、江戸時代にはその頒布率は全戸数の9割を占めるまでに至った<ref>{{Cite web |title=神宮大麻 |url=, http://www.shiga-jinjacho.jp/taima.html |publisher=, 滋賀県神社庁 |accessdate=, 2021-05-06}}</ref>。
近世期には、天照大神に対する国家鎮守神観や国民総氏神観がさらに強く人口に膾炙し<ref name="新城常三「近世の伊勢参宮」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)39頁">新城常三「近世の伊勢参宮」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)39頁</ref>、下人や丁稚、奉公人など被支配階級の伊勢参宮に対する寛容性や参宮の国民的義務観が生じて、[[お蔭参り]]をはじめとする庶民の伊勢神宮への参宮が盛行した、下人や丁稚、奉公人など被支配階級の伊勢参宮に対する寛容性や参宮の国民的義務観が生じて、お蔭参りをはじめとする庶民の伊勢神宮への参宮が盛行した<ref name="新城常三『社寺と交通』至文堂(1960)153頁">新城常三『社寺と交通』至文堂(1960)153頁</ref>。また、近世期においては天照大神は農業神としての信仰も受けるようになり、近世に盛んになる新田開発など、農村の開拓に当たっては天照大御神が村に勧請される例が関東などに多く見受けられ<ref name="西海賢二「伊勢信仰と街道ー古橋家文書からみるー」地域政策ジャーナル(2017)13頁">西海賢二「伊勢信仰と街道ー古橋家文書からみるー」地域政策ジャーナル(2017)13頁</ref>、天照大神の神体として鍬を祀る「御鍬祭」が全国各地の農村で行われた<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁</ref>。これには、伊勢の御師が檀家を回る際に、[[神宮大麻]]のほか農業暦である[[伊勢暦]]も渡し歩いたことが影響していると考えられる。これには、伊勢の御師が檀家を回る際に、神宮大麻のほか農業暦である伊勢暦も渡し歩いたことが影響していると考えられる<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁</ref>。この他、天照大神は病気平癒など様々な現世利益をもたらす神、全般的な福をもたらす神として広く庶民に信仰された<ref name="西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)190頁">西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)190頁</ref>。
=== 近現代 ===

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