隋唐以降、官吏登用に科挙が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人杜甫は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の言葉まで残している。また宋の時代には「文選爛すれば、秀才半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)という俗謡が生まれている<ref>南宋の陸游の『老学庵筆記』より</ref>。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。
『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の[[蕭該]]([[蕭恢]]の孫で、昭明太子の従甥)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、[[揚州 (江蘇省)|江都]]の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・[[李善 (唐)|李善]]ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の蕭該(蕭恢の孫で、昭明太子の従甥)の『文選音』である。少し後の隋唐の交代期には、江都の曹憲が『文選音義』を著した。曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・李善ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」)隆盛のきっかけとなった。
曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、[[658年]]([[顕慶]]3年)、唐の[[高宗 (唐)|高宗]]に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「'''李善注'''」である。李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚しているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。