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6 バイト追加 、 2022年9月10日 (土) 17:38
== 建国神話 ==
「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・百済に共通して見られるが、『三国史記』編纂の12世紀に『三国志』所引の東明王の夫余建国神話や日本の神武天皇の東征伝説を模倣して創作されたものと考えられている<ref group="私注">神武天皇関連で弓の名手だったのは、敵側の長髄彦である。しかも神武天皇とその同母兄弟達は「海神の息子」であることを権威の主張としているが、河神のことは何も言っていない。何でも「朝鮮の神話は日本神話の模倣」と言いたがる一人よがりな研究者がいるのだろうか?</ref>。特徴としては王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述する。。特徴としては王の政治的権威の源泉を天に帰属させ、同時に農業生産を左右する河神の権威を主張することである。ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述している。
百済の温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都も夫余と称している。かつて中国の東北地区にいた夫余が南下して、朝鮮半島の南西部に王朝を開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいには説明できない<ref name="豊田有恒100-101"/>。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という<ref name="豊田有恒100-101"/>。朱蒙は、北夫余から逃れてきて、その土地の夫余王に非凡な才能を見込まれ、その王女を嫁わされ即位し、沸流、温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子が現れたため、二人の王子は身の危険を察して、国を脱出して十人の臣下を連れて、南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地を探そうとし、兄の沸流は海辺に留まるが、十人の臣下は諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流は承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚が慰礼城に即位して、百済を建国した<ref name="豊田有恒100-101">豊田有恒, 2001-03-30, 魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷, 島根県立大学, 北東アジア研究 1, http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/, page-100-101</ref>。負児嶽、弥鄒忽などの地名を現在の地名に比定するのは難しいが、朝鮮半島を縦断する夫余の南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域を指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済の土城遺跡が保存されている<ref name="豊田有恒100-101"/>。これに関して、稲葉岩吉は「太康六年(285年)鮮卑の慕容氏に襲撃された扶餘の残黨は、長白山の東沃沮に逃げこんだというから、それが轉出して帯方に入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している<ref>稲葉岩吉, 稲葉岩吉, 矢野仁一, 矢野仁一, 朝鮮史・満洲史, 平凡社, date1941</ref>。

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