朱蒙は友と共に夫余を出て東南へ逃走した。淹水(鴨緑江の東北)まで来たが橋がなく、追手を恐れた朱蒙は川に向かって「私は太陽の子で河伯の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や鼈が浮かんで橋を作り、朱蒙らは渡ることができた。朱蒙らが渡り終わると魚達の橋は解かれ、追手は河を渡れなかった<ref group="私注">不完全な形ではあるが、朱蒙神話にはいわゆる「動物番」の要素があるように感じる。</ref>。
更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、{{Lang|ko|紇}}升骨城(現在の桓仁満族自治県{{仮リンク|五女山城|zh|紇升骨城}})を築き都とした。[[前漢|漢]]の[[建昭]]2年([[甲申]]の年、西暦[[紀元前37年]])に国を建て「高句麗」と号した。即位直後から隣接する[[濊貊]](『三国史記』中の「靺鞨」は{{Lang|ko|濊}}貊を指す)の部落に対して略奪や破壊を繰り返すと、{{Lang|ko|濊}}貊は恐れて服属した。更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、紇升骨城(現在の桓仁満族自治県五女山城(紇升骨城))を築き都とした。漢の建昭2年(甲申の年、西暦紀元前37年)に国を建て「高句麗」と号した。即位直後から隣接する濊貊(『三国史記』中の「靺鞨」は濊貊を指す)の部落に対して'''略奪や破壊を繰り返す'''と、濊貊は恐れて服属した。
=== 王位の継承 ===
紀元前19年5月、子の類利(るいり、ユリ、後の[[瑠璃明王]])がその母の[[礼氏夫人|礼氏]]とともに夫余から逃れてきた。これを喜んだ朱蒙は類利を太子とした。同年9月に40歳で死去し、龍山に葬られて[[諡]]号を東明聖王とされた。紀元前19年5月、子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母の礼氏とともに夫余から逃れてきた。これを喜んだ朱蒙は類利を太子とした。同年9月に40歳で死去し、龍山に葬られて諡号を東明聖王とされた。
== 建国の年 ==
上述の通り、伝説では紀元前37年に建国したというが、実際には[[元鳳]]6年([[紀元前75年]])に[[玄菟郡]]が廃止された時、高句麗侯として自立したとみられている。紀元[[32年]]に高句麗侯は高句麗王に昇格したがこれは漢の朝廷から与えられた称号であり、自称としては伝説の通り紀元前37年に実質的に王であったとして問題ないと考えられている。『日本書紀』天智天皇紀では、[[668年]]の高句麗滅亡は仲牟王の建国からちょうど700年目であったとされ、逆算すると建国は[[紀元前32年]]となる。『[[新唐書]]』高麗伝、『[[唐会要]]』高句麗では[[高宗 (唐)|高宗]]に問われた[[侍御史]]の賈言忠([[賈曾]]の父、[[賈至]]の祖父)の言葉として、漢代の建国から滅亡まで900年とするが、王名は記していない。『三国史記』東明聖王本紀は上述のように建国を紀元前37年とする一方、[[宝蔵王]]本紀では新唐書と同様、漢代の建国から900年と記し、新羅本紀で[[文武王]]10年([[670年]])安勝を高句麗王に封じた冊命書では太祖の中牟王から800年と記している。上述の通り、伝説では紀元前37年に建国したというが、実際には元鳳6年(紀元前75年)に玄菟郡が廃止された時、高句麗侯として自立したとみられている。紀元32年に高句麗侯は高句麗王に昇格したがこれは漢の朝廷から与えられた称号であり、自称としては伝説の通り紀元前37年に実質的に王であったとして問題ないと考えられている。『日本書紀』天智天皇紀では、668年の高句麗滅亡は仲牟王の建国からちょうど700年目であったとされ、逆算すると建国は紀元前32年となる。『新唐書』高麗伝、『唐会要』高句麗では高宗に問われた侍御史の賈言忠(賈曾の父、賈至の祖父)の言葉として、漢代の建国から滅亡まで900年とするが、王名は記していない。『三国史記』東明聖王本紀は上述のように建国を紀元前37年とする一方、宝蔵王本紀では新唐書と同様、漢代の建国から900年と記し、新羅本紀で文武王10年(670年)安勝を高句麗王に封じた冊命書では太祖の中牟王から800年と記している。
[[好太王碑]](広開土王碑)では[[好太王]]は鄒牟王の17世とする。これを17世孫の意味にとると、『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とあるのと比べて5世代も多い。そこで『三国史記』は[[新羅]]王室に連なる[[慶州金氏]]の[[金富軾]]が編纂したものであり、新羅を持ち上げるために高句麗の建国年を新羅の自称建国年(実際には4世紀末から5世紀初頭)よりも後にしたとみる説もあったが、現在では碑文の17世は「17代目」の意味とするのが普通である<ref>そうすると『三国史記』は広開土王が第19代であるとしているので今度は逆に2代も少ない。これについて、『三国史記』の系譜伝承は何段階にもわかれて形成されたと推定されているが広開土王の時代にはまだ後世の『三国史記』の系譜伝承が完成しておらず、次大王と新大王が追加されていなかったと考えられている。</ref>。
* 『日本書紀』天智天皇紀
* 『魏書』東夷伝高句麗
* {{Cite book|和書|editor=武田幸男|editor-link=武田幸男|date=, 2000-08|title=, 朝鮮史|series=[[, 世界各国史]]|publisher=[[, 山川出版社]]|, ISBN=:978-4634413207}}
== 関連項目 ==
[[Category:朝鮮神話]]
[[Category:踏まれない神]]
[[Category:卵胎性神]]