;矢矧三宝大荒神社
:矢助が矢を作ったとされる場所
== 私見 ==
伝説の元となった「鬼退治(あるいは盗賊退治)」の物語は古くからあったものかもしれないが、魏石鬼八面大王の「伝説群」そのものは江戸時代以降に成立したもののようである。『仁科濫觴記』における仁科氏は、
* 平安時代:皇姓仁科氏 → 承久の乱後の処分で直系は断絶、関氏から養子を迎える。
* 鎌倉~戦国:関姓仁科氏 → 当主仁科盛政は、臣従した武田氏に翻意あり、として処刑され、直系は断絶。武田氏(仁科五郎盛信)が跡目を相続する。
** 盛政の子供達は、飯縄神社の神主「千日次郎太夫」の養嗣となり、神官として明治維新まで存続した。
** 仁科氏の支族は、平姓仁科宗家・武田両氏滅亡後、上杉氏に臣従し米沢藩士として仕えた者、小笠原氏に出仕した者に分裂したが、多くは兵農分離で帰農した。
と、複雑な歴史を辿った家系であり、多くの支族を排出したが、直系は「武家」として存続することが結局は「できなかった家系」といえる。安曇野に残った多くの支族は、仁科神明宮など、仁科氏ゆかりの寺社を直系に代わり、守り支えてきており、一族の結束は固かったと思われる。江戸時代に入って安曇野全域で「魏石鬼八面大王」の伝承が現在の形のように整えられたのは、仁科氏の先祖の偉業を語り継ぐためであったのではなかろうか、と思う。それが、より知名度の高い有力な武将である坂上田村麻呂の「東征伝説」と結びつけられることで、より広まったのではないだろうか。
== 参考文献 ==
*Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E7%9F%B3%E9%AC%BC%E5%85%AB%E9%9D%A2%E5%A4%A7%E7%8E%8B 魏石鬼八面大王](最終閲覧日:22-03-31)* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E6%B0%8F 仁科氏](最終閲覧日:22-03-31)
** 高橋崇, 高橋崇, 坂上田村麻呂, 新稿版, 吉川弘文館, 人物叢書, 1986-07-01, isbn:4-642-05045-0