== 境内 ==
* 本殿
*: 『[[二十二社註式]]』にある[[大化]]4年([[648年]])の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年([[1898年]])の再建。正面三間側面二間の[[流造|三間社流造]]の正面一間に[[向拝]]を[[破風|縋破風]]で付け[[千木]]・[[鰹木]]を置く。同年、本殿階下の正面一間側面二間の[[切妻造|切妻造妻入]]の幣殿と、方三間の[[入母屋造]]妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿(幣殿に接続)も再建された。以上いずれも[[檜皮葺]]。なお、明治32年([[1899年]])発行の[[五円紙幣]]にある拝殿はこの時のもの。『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建。正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で付け千木・鰹木を置く。同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿(幣殿に接続)も再建された。以上いずれも檜皮葺。なお、明治32年(1899年)発行の五円紙幣にある拝殿はこの時のもの。
* 双履石(そうりせき)
*: 本殿後背の亀金山(亀金岡)上の本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える本殿後背の[[磐境亀金山]]として信仰される。直下は直径14メートルの円墳((亀金岡)上の本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える磐境として信仰される。直下は直径14メートルの円墳('''宇倍神社古墳'''または亀金丘古墳/宮下46号墳)であり、1942年(昭和17年)の土砂崩れで墳丘の一部が損壊するとともに[[竪穴式石室]]が露出して副葬品が出土した(石室は出土品の大半とともに埋め戻し)。竪穴式石室は扁平な割石の小口積みによるもので、石室主軸を東西方向とし、長さ2宮下46号墳)であり、1942年(昭和17年)の土砂崩れで墳丘の一部が損壊するとともに竪穴式石室が露出して副葬品が出土した(石室は出土品の大半とともに埋め戻し)。竪穴式石室は扁平な割石の小口積みによるもので、石室主軸を東西方向とし、長さ2-3メートル・深さ約1メートルを測る。副葬品としては銅鏡・鉄剣・玉類・鉄鏃等の鉄製品が検出されている。築造時期は[[古墳時代]]中期の3メートル・深さ約1メートルを測る。副葬品としては銅鏡・鉄剣・玉類・鉄鏃等の鉄製品が検出されている。築造時期は古墳時代中期の[[5世紀]]前半頃と推定される<ref>「亀金丘古墳」『日本歴史地名大系 32 鳥取県の地名』平凡社、1992年。</ref><ref>{{PDFlink|[http://db.pref.tottori.jp/pressrelease2.nsf/5725f7416e09e6da492573cb001f7512/2fb2854e0f280b67492585d600160dfd/$FILE/ubejinnjyakohun.pdf 県立博物館歴史の窓において「宇倍神社古墳 -収蔵庫から発掘した因幡の古墳-」の展示を行います]}}(鳥取県立博物館)。</ref>。<gallery>File:Ube-jinja, honden-1.jpg|本殿File:Ube-jinja, honden-2.jpg|本殿(背面)File:Ube-jinja, Kamegane-no-oka.jpg|亀金岡(右に本殿)File:Ube-jinja, sekihi.jpg|武内宿禰命終焉之地碑</gallery>
== 摂末社 ==
[[File:Ube-jinja, Kou-jinja.jpg|thumb|220px|right|{{center|国府神社}}]]
* 国府神社
** 祭神:[[タケミカヅチ|建御雷神]]・[[ヤマトタケル|日本武尊]]・[[祓戸大神|速佐須良比咩神]]・武内宿禰命・[[イザナギ|伊弉諾尊]]・[[菊理媛神|菊理姫命]]・土御祖神・[[かまど神|奧津彦命]]・[[かまど神|奧津姫命]]・[[ウカノミタマ|宇迦之御魂命]]の10柱
== 現地情報 ==
'''所在地'''
* [[鳥取県]][[鳥取市]][[国府町 (鳥取県)|国府町]]宮下字一宮651
'''交通アクセス'''
* [[鳥取駅]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[山陰本線]])から、[[日ノ丸バス]]中河原線(路線番号:80・81・82・83・84)で「宮下」バス停下車(乗車時間20分、下車後徒歩すぐ)
'''周辺'''
* [[因幡万葉歴史館]]