日本におけるカマドの伝来は古墳時代前期末(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)にさかのぼり、朝鮮半島から渡来人を通じてもたらされた<ref>横浜市歴史博物館, 2010, p15-17</ref>。当時の集落遺跡の竪穴建物に造り付けカマドが導入されると、調理様式や器材に「台所革命」とも評される劇的な変化を与え、古墳時代中期~後期(5世紀~6世紀)にかけて爆発的に普及していった<ref>横浜市歴史博物館, 2010, p15-17</ref>。この時、カマドを信仰の対象として捉える文化も同時に普及し、カマド構築材に祭祀遺物(石製模造品)を封じ込める例(神奈川県横浜市矢崎山遺跡])や、古いカマドを解体する際に'''底を打ち欠いた土師器'''を2枚伏せて「カマド鎮め」をしたと見られる例(千葉県香取市小六谷台遺跡)などが各地で見つかっている<ref>横浜市歴史博物館, 2010, p5-8</ref>。
[[千葉県]][[印旛郡]][[酒々井町]]の飯積原山遺跡(いいづみはらやまいせき)では、平安時代前期([[9世紀]])の[[竪穴建物]]から出土したカマドの[[支脚 (かまど)|土製支脚]]に眉・目・鼻の表現が線刻されていた千葉県印旛郡酒々井町の飯積原山遺跡(いいづみはらやまいせき)では、平安時代前期(9世紀)の竪穴建物から出土したカマドの土製支脚に'''眉・目・鼻の表現が線刻されていた'''<ref>{{Cite web|和書|author=四国新聞社|url=, https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20020328000573|title=, かまどの土製支脚に人面/平安期住居跡から出土|work=, 四国ニュース|date=, 2002-03-28|accessdate=, 2023-04-18}}</ref>。また、[[埼玉県]][[深谷市]]・[[熊谷市]]の、7世紀から11世紀にかけての[[官衙]]跡である[[幡羅官衙遺跡群]]の竪穴建物から出土した土製支脚と見られる棒状土製品にも人面が彫刻されていた。また、埼玉県深谷市・熊谷市の、7世紀から11世紀にかけての官衙跡である幡羅官衙遺跡群の竪穴建物から出土した'''土製支脚と見られる棒状土製品'''にも人面が彫刻されていた<ref>{{Cite web|和書|author=文化振興課|url=, http://www.city.fukaya.saitama.jp/haraiseki/topics/1555548604970.html|title=, 幡羅遺跡へようこそ(ハラ君)|work=, 深谷市|date=, 2019-04-18|accessdate=, 2022-04-24}}</ref>。2023年(令和5年)1月には、[[茨城県]][[那珂市]]の下大賀遺跡の竪穴建物から、人面および胴体が線刻された石製支脚が出土した(石製では初の事例)。2023年(令和5年)1月には、茨城県那珂市の下大賀遺跡の竪穴建物から、'''人面および胴体が線刻された石製支脚'''が出土した(石製では初の事例)<ref>{{Cite web|和書|author=東京新聞社|url=, https://www.tokyo-np.co.jp/article/227055|title=, 表面の汚れを取り除いてみたら…下大賀遺跡出土のかまど用支脚に人形の絵、来月桜川で公開|work=, 東京新聞|date=, 2023-01-24|accessdate=, 2023-04-18}}</ref>。これらカマドの[[支脚 (かまど)|支脚]]にみられる人面付きのものは、カマド神の表現ではないかとされている{{Sfn|。これらカマドの支脚にみられる人面付きのものは、カマド神の表現ではないかとされている<ref>横浜市歴史博物館|, 2012|p=23}}, p23</ref>。
一般にはかまどや炉のそばの[[神棚]]に[[御幣|幣束]]や[[神札]]を祀るが<ref>かまど神の場合、神棚は一般的には「一社造り」で榊立ては一つである。[[榊]]以外に[[松]]を供えることもある。</ref>、祀り方の形態は地方によって様々である。[[東北地方]]では[[仙台藩]]領の北部([[宮城県]]北部から[[岩手県]]南部)では、竈近くの柱に'''カマ神'''や'''カマ男'''と呼ばれる粘土または木製の面を出入口や屋外に向けて祀る<ref>[https://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/01kamagami.html 指定文化財|県指定有形民俗文化財|カマ神] - [[宮城県]]公式ウェブサイト</ref>。新築する際に家を建てた[[大工]]が余った材料で作るもので、憤怒の形相をしており陶片で歯を付けたり[[アワビ]]の貝殻を目に埋め込んでいるのが特徴<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/76116 カマ神 文化遺産オンライン] - [[文化庁]]</ref>。[[信越地方]]では'''釜神'''といって、約1尺の木人形2体が神体であり、[[鹿児島県]]では人形風の紙の御幣を祀っている。竈近くの柱や棚に[[御幣|幣束]]や[[神札]]を納めて祀ったり、炉の[[囲炉裏#囲炉裏に付属する道具|自在鉤]]や[[五徳]]を神体とする地方もある<ref name="sakurai" />。島根県安来市につたわる'''安来節'''も火男を象徴しているということが言われている。[[沖縄]]、[[奄美群島]]では[[ヒヌカン]](火の神)といって、家の守護神として人々には身近な神である。
日本の[[仏教]]における尊像・[[三宝荒神]]は、かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている<ref name="kamisama">{{Cite book|和書|author=宗教民俗研究所編|title=ニッポン神さま図鑑|year=2003|publisher=[[祥伝社]]|series=祥伝社黄金文庫|isbn=978-4-396-31337-1|pages=31-32}}</ref>。また[[近畿地方]]や[[中国地方]]では、[[陰陽道]]の神・[[土公神]]がかまど神として祀られ、季節ごとに春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている<ref name="kamisama" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://kamagami.sakura.ne.jp/densetu.htm|title=工房釜神 【釜神の伝説 言い伝え 習俗】|work=[http://kamagami.sakura.ne.jp/ 工房 釜神]|accessdate=2008-02-05}}</ref>。
[[神道]]では三宝荒神ではなく、'''竈三柱神'''(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神は[[オキツヒコ]](奥津日子神)・'''[[オキツヒメ]]'''(奥津比売命)・[[カグツチ]](軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。なお、[[平野神社]](旧官幣大社)の第二座の久度大神は、竃神である。
住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、[[霊界]](他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある<ref name="sakurai" />。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある<ref name="kamisama" />。